「誠意」としての「祈り」

アメリカ人よ、なぜ鶴を折る:日経ビジネスオンライン

 募金ができない子どもたちはまだしも、私は鶴を折る理由が分からなかった。被災地に必要なのは鶴ではなくて、義援金や食料、衣服などではないか。

 実際に、私が友人にプリンストン大学の折り鶴プロジェクトを話すと、多くの人が「必要なのは鶴じゃないのにね」と反応した。

 折り鶴を日本に送ろうとした友人が、アメリカにある日本の政府機関や国際交流の団体に問い合わせると、「折り鶴を受け取るのは難しい。日本に送ることができる保証はできないし、かといって頂いた鶴を捨てることもできない」といった消極的な反応が多かったという。

 折り鶴を送ること以外に、やらなければならない仕事が山積しているのだろう。かさばる折り鶴を運ぶのは、物流網が完全に復旧していない状況では容易ではない。

 私はプリンストン大学の学生たちに、「折り鶴はかさばるし、被災者に必要なのはお金や食べ物じゃないのかな」とさりげなく助言し続けた。

 それでも、彼らはひるまなかった。鶴を折るという行為に確固たる意思と自信が満ちているように見えた。

 プリンストン大学で100万羽の折り鶴を集めようと動き出した柴田明日美さんはこう打ち明けてくれた。

 「募金だけでは、何か寂しい気がしたんです」

 地震が起きたとき、アメリカは深夜の午前1時46分。柴田さんは大学の宿題に追われていたが、友人の知らせでテレビをつけた。そして、息を呑んだ。

 「私の大好きな国が…。まさか、冗談でしょ」

 柴田さんはアメリカで育ち、日本にいけば、「自分はアメリカ人だな」と思わざるを得ないこともあるという。それでも彼女は思った。「やっぱり日本が好きだから、何かしないと落ち着けなかったんです」

 アメリカは募金活動が盛んな国だ。学校の食堂やパブリックスペースでは、いつも募金活動が行われている。柴田さんも最初は募金活動が頭に浮かんだ。

 しかし、彼女の心はどこか満足できなかった。

 「募金活動もしよう。でも、それだけではなく、自分も汗をかきたい」

 彼女が思い出したのが千羽鶴だった。1年前、大学の日本語教師だった母親が体を崩した時、中国人の学生が2日間で100羽の鶴を折って持ってきてくれたことがある。

 「母のために時間をかけて祈ってくれた。同じことを被災者の方にしたいんです」

 鶴を折りにやって来たプリンストン大学のクイントン・ベック君は、「小学校の時に友達が白血病になってしまって、みんなで千羽鶴を折ったんだ」と教えてくれた。

 折り鶴は、あっという間に入手できる花束でもなく、財布から取り出すだけのお金とも違う。時間をかけて作り上げるから、それだけ贈った人の気持ちが伝えられると信じている。

 東日本大震災がハイチ地震と違うのは、企画立案者の多くが日本に住んだことがあるか、日本のことを気にかけている人であること。ただ「困っている人にお金を送ろう」という心境とはどこか違う。友達が重い病気をして、そのお見舞いをする感覚に近いのかもしれない。であれば、お見舞いにお金だけ渡す人はいない。お金以上に精神的なメッセージを伝えたい、あるいは日本のために自分も汗をかきたいという気持ちがあるのではないか。


実は日本人には自分たちが気づかずに実践していることがある。

それは「祈り」。

千羽鶴もお百度参りも、全て根本は同じ。
それは「誠心誠意」。
一見何の意味もないことでも、これを心をこめて繰り返すことで多くの人々に影響を及ぼす力が生まれる。
無から有を生み出す実践活動なのだ。
これがキリスト教でいう「Prayer」の本質に通じることを大半の日本人は知らない。

だから我々はまず日々の生活でこの「祈り」を実践しよう。
それがお互いの心に「共感性」が広がっていく出発点となる。

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