日本人の宗教性に対する再考察が必要な時代

著者の田中氏は日本を代表する美術史の専門家。

学生時代にマルクス主義を体験後、ヨーロッパで西洋美術の研究を経て日本史の新たな境地を切り開く活動を進めている。

西洋的な視点では「日本人は無宗教で無神論者」が通説になっている。

ややもすると我々日本人自体も自虐史観的な傾向で納得してしまいがちだが、氏の論点はその論点を再考させてくれる力を持つ。

「神が自然を造った」一神教的世界観の西洋哲学と「自然の中から神が生み出された」日本人の宗教観の対比の中で、我々日本人がどうしても一神教的な観念を受け入れられない理由が見えてくる。

西洋哲学と一神教的世界観に潜む矛盾性が時代を経て露わとなり、西洋世界の三大宗教は最終的に無神論的世界観を生み出さざるを得なくなるまで追い詰められた。

崩壊の危機にある文明精神を再構築するために続けられている人々の努力に日本人の宗教精神とその方向性がソリューションを提供できる時代を迎えている。

そのような時代的要請の中で、我々日本人自体も世界を説得できるだけの実力を持つことが求められている。

同氏が自身の学問研究の中で切り開いてきたように、西洋的な思考方法と流儀を学ぶ必要性を忘れてはならないだろう。

エンペラー・ファイル : 天皇と日本人の狭間で

昭和・平成・令和の激動の中で天皇一家が模索してきた自身の在り方を理解できる貴重な証言。同じ人間、同じ日本人として共感を覚え、深い感銘が湧き上がる内容だった。

何よりも驚かされるのは、戦後の新憲法で「象徴天皇」とされた昭和天皇が各国の要人と渡り合う中でインテリジェンス能力をいかんなく発揮していく姿であり、その活動記録が我々後世の日本人に伝わる形で残されていたことは奇跡ともいうべき事実だ。

非常に微妙な戦後の雰囲気の中で、日本を共産主義の魔の手から守るため、己の命を賭して可能な限りの情報収集を尽くした昭和天皇の歩みがインタビューという形で明らかにされたことは、戦争で国体を奪われた日本人にとってのせめてもの至福だと思う。

その昭和天皇から次世代の教育を託されたアメリカのバイニング女史が、若き日の平成天皇に対してアメリカ民主主義の根幹を支える精神文化を伝える貴重なシーンが出てくる。

バイニングが出会った頃の皇太子は、まだ学習院中等科の学生で、その年齢にしては礼儀正しく聡明だが、どうも自分の意思で行動する意欲に欠ける印象を受けたらしい。どこへ行って、何をして、誰と何を話すか、全てを周りに任せっきりで、それは授業中の態度にはっきり現れた。
「やがて私は、とかくあらゆる決定を他人に任せて何も自発的にはなさらない殿下の受身な御態度を改めたいと思って、『最初に何をしましょう、書取り?会話?それとも読み方にしますか?』などと言い始めた。最初殿下は、『先生の方で決めて下さい』とおっしゃったりしたが、さあさあと促されると、たいてい、一番お嫌いな書取りを初めにするとおっしゃるのだった」
いきなり自由を与えられても、それをどうやって使っていいのか、自分でもよく分からない。教室で戸惑う皇太子の顔が目に浮かぶが、程度の差はあれ、それは当時の多くの日本人に共通していたとも言えるだろう。
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へ。戦況の悪化につれ思想統制が強まり、人々は意見を言う自由を奪われていった。自分の意思で行動するのを放棄させられた末に、戦後、どっと押し寄せたのが米国式民主主義である。だが一旦、思考停止に馴れたら、いきなり自由などと言ってもきょとんとするだけだ。中には、何でも自分勝手に振舞うのが民主主義と勘違いする輩も出る始末だった。
人間にとっての自由とは何か、規律とはどうあるべきか、それを皇太子に教えるためにバイニングは、いかにも彼女らしいやり方を取っていた。
ある日、彼女は生徒たちを連れて代々木にあった米軍用の住宅地区、ワシントンハイツを見学に訪れた。ここは米軍の将校とその家族が居住する区域で、敷地内には教会や映画館、学校などがあり、「日本の中のアメリカ」とも言えた。ここで皇太子の一行は、子供たちの授業を見学したが、彼女の回顧録から引用してみる。
「翌日、いつもの皇太子殿下の個人教授の時間に、アメリカン•スクールでは何に一番興味をひかれましたか、とおたずねしてみた。殿下は即座に『教室です』とお答えになった。私が『どういうわけで?』とおたずねすると、『子供たちが自由にのびのびとしているからです』というお答えであった。殿下は何か考えるように黙っておられたが、やがて、『なぜあんなに自由なんですか』と訊かれた。
簡単な言葉でどう説明したらよいものかと私は思いまどった。『アメリカの子供は大人になったとき自由な人間になろうとしているからです。そしていまのうちに、どうしたら人間はほんとうに自由になれるのか学ばなければならないのです。どうしたら一緒に働けるのか、どうしたら他人の邪魔をしたり傷つけたりしないで自由であることができるのか、を学ばなければならないのです。それを学ぶのは、彼等が学校にいる間なのです』
ややあって殿下はこうおっしゃった—『『アメリカのやり方と日本のやり方とどちらがいいのでしようか』
あからさまな比較をするのはいやだったので、私はちよっと質問をそらせて、『殿下はどちらだとお考えですか』とおたずねしてみた。
殿下はお笑いになったが、すぐ逆襲して来られた—『いいえ、先生にお訊きしているのです』そこで私は正直にこうお答えした—『日本の学校にもよい点はたくさんありますが、私はアメリカのやり方の方がよいと考えます。大人になったとき自由な人間になろうとするのならば、子供のうちにほんとうの自由とは何かを学ぶベきだと思います』」

若き日の平成天皇が自分で考える道を選択し始めたこと、それは正にアメリカのウォーギルド政策により洗脳状態を余儀なくされた日本国民に残された希望の突破口だった。

さらに一国の指導者として未曽有の苦難を通過した昭和天皇がその信念を国民と共有したいという思い、それが著者の行間を通じて伝わってくる。

・・・そもそも昭和天皇は、なぜバイニングを家庭教師に迎え、皇太子に何を学ばせようとしたのか。それは英語だけでなく、自分の意思で行動する力ではなかっただろうか。なぜなら、それが立憲君主にいかに大切か、自らの体験で心に刻んだのが他ならぬ昭和天皇だったからだ。
歴史にイフ(もしも)は禁句だとされる。すでに起きた過去の出来事を、後になって「あの時、こうしていたら」と振り返るのは無意味とも言われる。だが戦後の日本で最も真摯に、この問いを持ち続けたのは昭和天皇自身だったはずだ。
関東軍の暴走による張作霖の暗殺から満州事変、泥沼化した日中戦争と悪化する欧米との関係、そして真珠湾攻撃による全面戦争、これら全ての場面に天皇は立ち会い、後で「あの時、こうしていたら」と自問する瞬間が幾つもあったはずだ。
もし、満州事変で関東軍をもっと厳しく叱責していたら、もし、欧米との和平へより強いメッセージを出していたら、いや、もつと早く降伏を決断すれば、ひよっとして歴史の歯車を変えられたのでは。国中を焼け野原とし、軍人軍属と民間人合わせて三百万以上の犠牲者は出なかったのでは。
先に私は、戦後の昭和天皇が駆り立てられるように国際情勢のインテリジェンスを求めたのは、情報を持たずに国を崩壊させたことへの悔恨の念だったのではと述べた。だが、それと同じく、いや、それ以上に思い知らされたのが、自分の意思で判断し、行動する力の大切さではなかった。
いくら正確なインテリジェンスを得ても、それを自身の判断に生かし行動に移せなければ何の意味も持たない。優秀な情報機間があっても、それを政治家が生かせなければ宝の持ち腐れになるのと同じだ。そしていつの日か、昭和が終わり皇太子が後を継ぐ時、同じ過ちをさせないためにも米国人のバイニングを迎え入れた。その彼女の回顧録には、教室の黒板に「自分で考えよ!」と書いて、生徒らにこう語りかけた様子が残っている。
「私はあなた方に、いつも自分自身でものを考えるように努めてほしいと思うのです。誰が言ったにしろ、聞いたことを全部信じこまないように。新聞で読んだことをみな信じないように。調ベないで人の意見に賛成しないように。自分自身で真実を見出すように努めて下さい。ある問題の半面を伝える非常に強い意見を聞いたら、もう一方の意見を聞いて、自分自身はどう思うかを決めるようにして下さい。いまの時代にはあらゆる種類の宣伝がたくさん行われています。そのあるものは真実ですが、あるものは真実ではありません。自分自身で真実を見出すことは、世界中の若い人たちが学ばなくてはならない、非常に大切なことです」
もう半世紀以上も昔の言葉なのに、今日の世界を考えると予言的とすら言える響きがある。今ではあたかも真実を装った虚構の情報、フェイク・ニユースが氾濫し、ツイッターやフェイスブックを通じて拡散され、やがてそれが現実をも動かしてしまう。「自分で考えよ」というバイニングの言葉は終戦直後より、むしろ現代の私たちに相応しい忠告なのかもしれない。

最後に著者は現代における天皇制の核心を歴史的現実をもって読者に諭すのである。

結局、私たちにとって、日本人にとって天皇とは何なのだろう。確かに戦後の日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定している。が、何度、その文面を読んでみても、自分の中の漠然とした気持ちが消え去らなかった。象徴、シンボルとは何なのか。
まだ雨は降り続いていたが、目の前の群衆の数はさっきより増えているようだった。二重橋や大手町から傘を持つ人々が続々と集まり、年齢もばらばらで、中には家族連れの姿もある。そんな彼らがじつと黙つたまま目を凝らし、おそらく、ここだけでなく、皇居を取り巻く他の場所でも同じ光景が現れているはずだった。
その瞬間、不意に、あの田中清玄の言葉が脳裏に蘇ってきた。晚年の彼が自伝の中で、天皇制を物質の核になぞらえていたのを思い出したのだ。あらゆる物質は核がなければ結晶せず、例えば真珠がそうで、貝の中に小さな粒を入れることで分泌が起こって綺麗な真珠の玉ができるのだという。
「人間だって同じ。哲学のある人、信念を持っている人とそうでない人とでは、大変な違いがある。民族だって同じです。天皇制や王政がなぜ何百年、何千年たっても人類社会で続いてきたかを考えれば、私はまさにそれではないかと思う。民族にはバックボーンが必要なんだ。日本でもごく一部の人問が、共和制にするために、天皇制を除外するというが、できはしませんよ。やったら大変な混乱が起こるし、日本は壊滅します」
「これが平和を保つには一番いい政治体制なんです。自由主義や民主主義が共産主義に取って代われるという妄想は止めた方がよい。これは頭の悪い欧米の連中の考えだ。なぜなら現実はそうはならないじゃないか。国には中心となる核が必要なんだ。ニ千年たとうが三千年たとうがそうだということは、歴史を見れば分かるじゃありませんか」
なるほどね、「象徴」ではなくて、「核」か。
降りしきる雨の中、皇居を取り囲むように集まる人々を思い浮かべながら、もう一度、この言葉を反芻してみる。たしかに、しつかりした核さえあれば、たとえ物質が崩れても再生できる。どんなに国が乱れようと、いつか立派に再建できるのだ。その核を代々受け継ぐのが天皇家だが、これは右翼、左翼とか、保守、リベラルとかいう話でなく、歴史の現実か。そう言えば田中はロ癖のように、こうも言っていたという。
「すべては現実に適合しているかどうかなんだ。イデオロギーなんかに惑わされていたら、何も見えない」

落合莞爾氏「ワンワールド」シリーズについて

金融ワンワールド 地球経済の管理者たち    

金融ワンワールド 地球経済の管理者たち

  • 作者: 落合 莞爾
  • 出版社/メーカー: 成甲書房
  • 発売日: 2012/04/20
  • メディア: 単行本
最近落合莞爾氏の著書に関心を抱いている。
明治維新にまつわる陰謀論諸説を超え、「國體理論」という壮大な洞察を繰り広げる著者の見識はあまりにも広大であり、未だ明確な全体像を掴めていないのが実情だが、いずれにせよ今の世界が歴史的な宗派対立を導火線として混乱の道へと導かれつつあることは周知の事実だ。
本著は2012年発刊であり、ゼロ金利社会の背後の圧力についての洞察を主眼とするものだが、最近の世界情勢に警笛を鳴らす記述が目を引いたので一部引用しておきたい。
 
 産業社会の維持のために、金融ワンワールドが選ぶ次善(実は最善)の手段として、戦争が浮上してくるでしょう。
 世界は2011(平成23)年秋から、第四次大戦に突入した感があります。第一次は欧州大戦、第二時は世界大戦で、第三次大戦は結局、米ソ冷戦のまま終わりました。これに対し、第四次大戦は近代国家同士の戦争ではなく、各国内での一神教同士の対立を主とした内戦です。むろん根底は種族の生存競争ですから、背後には資源獲得を主眼とする経済問題があります。
 諸賢はご存じと思いますが、一神教が人類社会に及ぼす害毒は、当の一神教徒がほとんど自覚していないか、自覚してもしないふりをしているため、時を経ても改まるとは思えません。地上の経済問題に関わる国家間の武力闘争を既に克服してきた人類には、武力闘争はもはや宗教紛争の分野にしか残されていません。
 第四次大戦のエネミーライン(前線)は、国家間の戦争と違って、各国内を痛感する一本の針金のようなものです。朝鮮半島から始まり、南シナ海を縫ってアジア大陸に上り、タイ、ビルマ、チベットを結び、インド、パキスタンではやや広がり、アフガン、イラク、イランを通ってペルシャ湾を渡り、北アフリカに達します。エネミーライン上の各地では、小規模の戦闘行為がやむことなく陰湿に続くことでしょう。合計すれば数百人の人命が毎日毎日、失われていきます。
 その多くは民間人ですから、これを大戦と認識しない各国政府やマスメディアは、テロだの何だのと矮小化しますから、いつまで経っても解決しません。国連事務総長は仕事ができて大得意でしょうが、いくら安全保障理事会を開いても、ミッテルニヒの名言のごとく「会議は踊る」だけです。
 この内乱大戦は、ユダヤ教・キリスト教・回教の天啓宗教同士、またはその中の宗派同士の争いに発する「一神教対戦」ですから、これを制止するためには、人類は一神教の呪縛から覚めなければなりません。・・・
 
 

日本人、キリスト教、そして信仰の意義

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

  • 作者: 宮崎 賢太郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2014/01/21
  • メディア: 単行本
最近図書館に本を返しに行くときには必ず新刊コーナーを見ることにしている。そこにはかなりの確率で旬の書物が出ているからだ。今日見つけた本も自分の心の風景を明るくする内容だった。
「「カクレキリシタン」はキリスト教徒でない」というセンセーショナルな理論が興味をそそった。しかし内容は至って真面目なもので、著者の長年の研究成果からくる結論に感銘を受けた。学術的な部分は端折り要点を摘まみ読みしたが、日本人の核心を鋭く指摘するものだった。所謂「カクレキリシタン」と呼ばれる方々がその信仰の総本山であるカトリックになぜ戻らないのか、という疑問が投げかけられている。その最初の答えとして以下のような文章が綴られている。
『カクレキリシタンの信仰の根本は、先祖が命をかけて守り伝えてきたことを、たとえその意味が分からなくなってしまっても、忠実に絶やすことなく継承していくことにあり、その継承された信仰形態を守り続けていくことそのものが、先祖に対する最大の供養になると考えているからです。この理由はカクレキリシタンとしては最もオフィシャルな、そして彼らの信仰意識の顕在化された部分から出てくる最も的を得た回答といえるでしょう。』
ここで筆者は『「カクレをやめたり、カクレの神様を捨てたりすればタタリがある。それが怖くてやめられない」というのが、もしかしたら彼ら自身もはっきりとは気づいていない、もっとも本質的な理由かもしれません』とし、もっとも本質的なポイントとして「先祖崇拝」「奇跡信仰」「タタリ信仰」を挙げている。そして『これらに共通するのは、不思議な力を有する霊的存在への生き生きとした信仰』という結論を導き出している。
著者は『多数の殉教者が出たということは紛れもない歴史的事実で、何かに対して命までかけるような強い信念を有した人々が少なからず存在したことは確か』とし、殉教の事実を否定はしないものの、『しかし、それらの殉教者がいったい何のために、誰のために命を捧げたのかは確認する必要があります』と指摘し、これが『日本キリシタン史理解の急所の一つ』と説明している。つまり信仰の動機に関する客観的な問い直しの必要性を強調しているのである。これは『宣教師と深い交流のあった、高山右近のようなごく一部の例外的な身分の高い武士層を除けば、一般民衆層はほとんど日本の伝統的な諸宗教の教えと、キリシタンの教えの差異をはっきりと理解できていたとは考えられない』という分析からきている。
ここで注意すべき点として、『幕末から明治初期にかけての殉教事件は、キリシタン時代や潜伏時代の殉教とは少し事情が異なっている』という内容を挙げている。後者について著者は当時の宣教師の目的が「殉教」自体にあり、その理由として『殉教者が100%天国への道が約束されていたから』と説明する。一方前者は宣教師と信徒との間に生じた「御恩と奉公」の関係が生まれていたとしている。しかしいずれにしても、一般信徒の信仰の根本がキリスト的一神教に対する確信を普遍的共通要素とするには無理がある、という主張を述べているのである。
これに関連し、著者は「饅頭」の例えで我々の理解を補足している。つまり饅頭は外から見ると中身が「アンコ」(日本的)なのか「クリーム」(西洋的)なのかは判別がつかない。生地がパイからできていれば欧風の香りもするかもしれない。しかし饅頭の最終的な特色を決めるのは中身である。カクレキリシタンの宗教性を調査した結果、その中身は完璧に「アンコ」であり、日本の民俗宗教にキリスト教的な「強化剤」を加えた「ありがたい教え」だったと結論付けている。ここで日本人に特有の「信仰の重層性」という側面が強調されている。そして日本の諸宗教の根底には「祖先崇拝」が普遍的に見出され、『目に見えない、どのような神様なのかすらわからない神よりも、身近に接した自分たちの血につながる殉教した先祖たちの言葉、行いのほうが大きな影響を与えた』のだと解説している。
著者の結論として、『仏様も神様もキリシタンの神様も、先祖が同じように大切にしてきたありがたい神様』なので拝んでいる神様に優劣はないこと、そして日本の宗教が最も大切にしているのが「ケガレ」を嫌う「清らかさ」であることを挙げている。
また西洋のキリスト教については、明治以降の自国文化軽視と西洋文明への憧憬から敬虔禁欲的なバーチャルイメージがいまだに残り、これがキリスト教への敷居を高くしているが、その一方で『私たちが真剣に生きる意味や、さまざまな究極的な問題の解決を模索しようとするとき、先祖より家の宗教として受け継がれてきた仏教や神道は日本人の一般民衆の心の支えとはなりえて』おらず、また現在の学校教育を通じて知らず知らずのうちにキリスト教的世界観に接する機会をもつ日本人の考え方や行動規範はむしろキリスト教的となっているのが現実であり、その意味ではキリスト教の日本布教は一定の成果を収めていると指摘している。
自分としては改めて「キリスト教徒は何か」、「信仰とは何なのか」という深いテーマを考える機会となった。上述した著者の説は決して「カクレキリシタン」の価値や日本の宗教土壌の価値を低めるものではない。悟るべきは結局、各宗教の教義的相違点に振り回されることなく、宗教的実践を通じて培われる人々の和合の精神が重要なのだという点だと理解した。現代人は「人間にとって最も重要なことは何なのか」ということについての考察が至極困難な環境に置かれており、そのためにはまずもって宗教
的な和合があらゆる問題のキーワードになるはずだ。そして日本人はその歴史的事業の推進に対して重要な役割を担うことのできる素質を有していると確信するのである。

日本は人類歴史の「パンドラの箱」

 
なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287) 

なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287)

  • 作者: 加瀬 英明
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2012/08/01
  • メディア: 新書
 
 
ここ最近安倍首相の発言や外交活動により各国のマスコミが騒々しい。
例の如く日本のマスゴミは「叩く」か「煽る」かのステレオタイプだ。
その根底にある論争の起源を冷静に探り、かつ明晰な理解をもたらしてくれる情報にはなかなかお目にかかれない。
しかしそれらの疑問に事実関係と歴史的俯瞰をベースとして簡潔な答えを与えてくれる非常にありがたい新書を見つけた。
そこには近代日本が欧米列強との関係の中で突き付けられた課題、そこから浮かび上がってきた日本人の長所と短所、そして意識転換の必要性が指摘されている。 
 
まずは日本の平和が虚構の上に成り立つ代物であるとの意見を引用する。
 
戦後の日本の平和主義は、日本が国家であることをやめ、外国の被保護国として安逸な環境に馴れるうちに、国民のあいだに定着したものである。
国民の多くが日本が「平和主義国家」であることを誇ってきたが、他人委せのの贅沢を見せびらかして、自慢するのと同じように浅はかなことだ。他人委せの平和を誇ることはできない。日本国民には、平和を愛していると言える資格はない。
戦後、アメリカの絶対的な軍事保護が、日本人から国家意識を失わせるのに当たって、決定的な力を持った。日本はどの独立国であっても持っている建国の精神を、忘れてしまった。
今日の日本の類例がない平和主義が、前大戦における惨惜たる敗戦の反動として生まれたというのは、まったく事実に反している。将来、もし、アメリカが日本を守ることがなくなったら、今日、平和主義を信奉している日本国民までが、防衛体制を強化する道を選ぶこととなろう。戦後の日本の平和主義は、御都合主義であり、まやかしでしかない。
国家の独立を自助努力によって守るのは、どのような国家にとっても、国家として在立を確保するに当たって求められる。日本にいまだに国旗国歌があり、国家であることを嫌い、自衛隊を疎かにする人々がいるが、日本が国家であってはならないと考えているから、反対しているのだ。
日本が国家であることを否定することによって、国家を形成する責任から解放されたから、放縦に暮らせる特許状を手に入れたようなものだった。
先の戦争について、日本国民のあいだに日本が絶対的な悪であったのであり、戦勝諸国が絶対的な善であったという東京裁判史観を安易に受け入れて、日本だけに咎を負わせることが、いまだに流行っている。日本が罪深く、危険きわまりない国であれば、国家としての責任を担う資格がないことになるから、都合がよかった。
・・・日本では得体の知れないものが、権威をもって横行していることが多い。日本民族を特徴づけている和の力は、善用されればよいが、しばしば自らを傷つける両刃の剣となる。
日本では本当は実態が乏しく、内容が不十分なものであるのに、そのものにあたかも大きな権威があるかのように、つくりあげてしまうことが多く見られる。たとえば憲法にしても、現実にまったくそぐわないのに、改めることができない。金縛りにあったような状況が、続いている。
憲法について、コンセンサスがあるのだ、といって、このコンセンサスは全員がよく考えた結果として、生まれたものではない。
どうして日本では人々が得体の知れないものに、寄りかかるのか。このようなことは、ほとんどの日本人が成熟した自己を持っていないことから起こる。
不十分で、中途半端な自我形成しか行なわれていないのだ。自我の中心が自分のなかにないので、自分を一人の人間として意識することがない。自分の大部分を集団に委ねていると、つねに集団のコンセンサスがどこにあるのか、気を配らなければならない。
そこで、全員でさぐりあうことになる。みんなでさぐりあううちに、実態のないような中心が生まれる。
これは無責任なものだ。ところが、全員がこの得体の知れない中心に、寄りかかることになる。どこにもないものであり、実態がなくても、コンセンサスであるから支配的な力を持つ。
コンセンサスは冒しがたい権威を備えて、独り歩きを始める。日本国憲法は、このような得体が知れないコンセンサスの代表的なものだ。
敗戦までは、新間がこのような得体の知れないコンセンサスを、支えてきた。満州事変以降、新間が軍国主義熱を、さかんに煽った。
戦前は「無敵日本」とか、「神州不滅」といったスローガンによって代表されたコンセンサスが形成されて、国民の思考を呪縛したために、現実に即した議論を行なうことができなかった。日本は知的な逞しさがない国となってしまつた。今日の日本はかつての軍国主義が、まやかしの平和主義によって擦り替えられただけで、同じように無責任なコンセンサスによって、自らを縛っている。
 
一方、著者は日本人が自分たちの誇るべき歴史さえ忘れさせられていると説明する。 
 
今日、当然のことになっている人種平等の世界は、日本の力によってもたらされたものである。
先の大戦は日本が切羽詰まって自衛のために立ち上がった戦争だったが、多くの日本の青年がアジアの解放という夢のために、生命を捧げた。
日本によって、世界のありかたが一変した。それだけに西洋諸国による報復も、すさまじいものだった。戦争に勝った連合国は、日本の輝かしい歴史を抹殺することを、はかった。
・・・日本は第二次大戦で、アジアの国々を侵略したとされている。
しかし、どうして侵略をする国が、侵略をされた国の青年に軍事教練を施し、精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国にわたって作り、近代組織の経営方法を教えるということがあろうか?
この事実はとりもなおさず、侵略したのが日本ではなかったことを、証明している。
日本がアジアの国々を侵略していた西洋諸国から、アジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を惜しまなかったと見るのが、正しい認識であると思える。
もちろん、日本は「自存」のために、大東亜戦争を戦ったのであって、アジアの解放のために戦ったのではなかった。しかし、いったん戦端が開かれると、アジア人のためのアジアを創造する強い情熱に駆られたことも、事実である。これこそ、日本人による大きな国際貢献だった。
・・・アジア・アフリカに、数多くの独立国が生まれた。もちろん、これはキリスト教の神の御旨に背くものだった。
日本は二十世紀の人種平等の神話をつくることによって、日本太古の国造りの神話を、二十世紀になって再演してみせた。新しい世界を生むことになった神話を、人類のためにつくりだした。
日本こそ、人類の希望だった。
ペリーは「パンドラの箱」を、開けたのだった。
 
読み終わってから、ルネサンス後20世紀に至る近世500年の歴史を振り返ってみた。
そこには欧米の圧力に翻弄されたアジア・アフリカ諸国の苦難とそこに立ち向かう始点となった日本の歴史が見えてきた。
歴史の困難な課題に日本人が係ってきたこと、その代価としての歴史的重荷、国勢の凋落、先人たちの苦悩、、、すべてが我々に課された十字架となっていることに心が揺さぶられる思いだった。
 
これらの主張が直ちに日本人の意識転換をもたらすことは難しいだろう。
しかし今後の潮流の中でいつかは消化してゆかねばならない課題であることは疑いの余地がない。
 
 

働くということ

働くということ

働くということ

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2004/09/18
  • メディア: 単行本


現在転職活動で悪戦苦闘する自分にとって、何らかの力を与えてくれるのではないかという淡い期待で借りてきた本。
正直なところ、「はじめに」と「おわりに」以外あまり読んでいないので上手なコメントができる立場ではないが、かなり分厚い本なのでどちらにしても全部は読めそうにない。
しかも発行年が2004年で、当時とはだいぶ世相が異なっていることも熟読の意欲をそぐ要因の一つだ。
ただ最初と最後を読んで、やはり世の中の人々は「働く」ということにみな悩んでいること、そしてその悩みは人それぞれであること、特に若い世代と熟年世代との格差が広がっていること等々、当たり前だが納得できる記述に改めて自身の転職活動の意義を考えさせられた。
以下印象に残る引用部分となる。

取材の過程で浮き彫りになったことがいくつかあります。一つは世代間に横たわる就労観の溝です。大学の就職課に母親同伴で渋々と相談に訪れる男子学生。大企業への就職には見向きもせず、「起業」を目指してセミナーに日参する大学・高校生。労働市場に参画することが「自立」への第一歩だとすれば、いま、その道筋はかつてないほど多様です。「何はともあれ就職」を選択してきた中高年の世代から見れば、認めがたいモラトリアムとも映ります。
…若い人たちに「同世代のフリーターの増大をどう思うか」と聞いてみたことがあります。大半は「他人に迷惑をかけているわけでもないし、自分探しはいいと思う」「前向きなフリーターだつている」という肯定派でした。むしろ、団塊など先輩世代に対し「ポストを独占している」「退職金や年金を食い逃げしている」と不満を言い募る姿が印象的でした。
若年層の就労システムが崩壊すれば、技術やスキルの伝承は途絶え、年金に代表される世代間の相互扶助のメカニズムまで壊れてしまいます。本格的な人口減少時代が間近に迫るいま、「自分探し」にとどまり続ける若者の姿は、長期停滞する日本経済の未来にも重なって見えます。

もう一つは、誰もが必ずしも働くことをめぐって「最終的な答え」や「単一の価値観」を持っているわけではない、ということです。
誰のために、どんな目的のために仕事をするのか。バリバリとビジネスの最前線で働きたいと思う半面、南の島でのんびりとした生活にもあこがれる。組織の歯車であることには満足できないのに、独立することもそれ以上に怖い。社会に貢献したいのは山々だが、自分の生活や家族も大事……。誰もが迷い、惑い、揺れながら自分の道を探し続けているのです。
…世代を問わず一人ひとりが「働く意味」を取り戻し、見つめ直すきっかけとなるのは、立派な就業支援センターやパソコン研修ではないはずです。親や子、友人、先生といった身近な人たちとの触れ合いや何気ない会話などを通じ、働く喜びを伝え合う機会を持つことが欠かせません。
本書に登場した「働く人たち」の姿は千差万別です。どうかあなたやあなたの友人、先輩や後輩、あなたのお子さんやご両親などの働き方と比べて、それぞれの「位置」を確認してみてください。そして、誰かとそれを話題にして、好悪、共感、反発など感想をぶつけ合ってみてください。案外、自分にとっての「働くことの意味」がそこから見えてくるかもしれません。…

 

サラリーマンと起業の狭間で

独立宣言!カイロプラクティックで起て―格差社会で独立・開業し成功するためのサバイバル・ブック

独立宣言!カイロプラクティックで起て―格差社会で独立・開業し成功するためのサバイバル・ブック

  • 作者: 大川 泰
  • 出版社/メーカー: 現代書林
  • 発売日: 2006/09
  • メディア: 単行本

カイロプラクティックで誰もが成功できる理由(わけ)―感謝されて、楽しく豊かになれる「独立ビジネス」

カイロプラクティックで誰もが成功できる理由(わけ)―感謝されて、楽しく豊かになれる「独立ビジネス」

  • 作者: 大川 泰
  • 出版社/メーカー: 現代書林
  • 発売日: 2007/07/13
  • メディア: 新書

「起業と自立」というテーマで図書館を散策していたときに見つけた本。
1冊目が起業の意義、2冊目が医学とカイロプラクティックの関係という、共に考えさせられる内容だった。

会社勤めの悲哀について、著者は自身の経験を含め強く主張する。
失業者問題の原因は不景気にあるのではなく根本的に資本主義という競争社会にあると説明し、好むと好まざるとにかかわらず、将来的にアメリカ型の資本主義が幅を利かしていくと説く著者の理論展開には納得せざるを得ない。
ここで起業の成功率は1500分の1という厳しい現実があるものの、そこにはある種の鉄則があると強調する。
これは非常に重要かつ明確なポイントと理解した。

1)スモールであること(資産)
2)敗者復活しやすいこと(経費)
3)利益率が高いこと(利益)
4)大手が参入できないこと(競争力)
5)下請けでないこと(自前力)
6)ベビーブーマーをターゲットとしていること(市場力)

ベビーブーマー以後の社会については多少疑問が残るものの、現時点では確かに明確なビジネスポリシーがそこには構築されている。

2冊目では主に現代医学の問題点と時代の潮流に乗るカイロプラクティックの特徴が描かれる。
しかも第2世代の最新理論をベースとする大川学院の教育理念には一寸の隙も見られない。
別に宣伝マンでもないが、勉学と経営の調和を重視する姿勢には見習うべきものが多い。

自分自身はカイロプラクティック自体に興味をそそられるということはないが、過去にサラリーマンを経験した著者の経歴には強く共感を覚えた次第である。

 

旧友の作品

プーチン 最後の聖戦  ロシア最強リーダーが企むアメリカ崩壊シナリオとは?

プーチン 最後の聖戦  ロシア最強リーダーが企むアメリカ崩壊シナリオとは?

  • 作者: 北野 幸伯
  • 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
  • 発売日: 2012/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
いかめついロシア大統領の表紙はあまり好感をもたれないかもしれないが、書いてあることは至って深刻な内容だ。
もちろん全ての人が国際政治に興味を持っているわけでもないだろうが、激動の国際社会で日本人としていかに行動するのか、その行動理念が問われている時代に生きている我々に、一つの示唆を与えてくれる。
北野氏はメルマガで著名なロシア国際政治アナリストだが、その作品は常に祖国への愛国心に満ち溢れている。
彼のテーマは「日本人の自立」。
はっきり言って今の日本人には「自立心」が見られない。
それをプーチンの行動によってはっきりと示している内容が書かれている。
プーチンがしてきたこと、それは
1)財政の黒字化
2)借金の返済
3)外貨準備高の備蓄
であり、これはどの日本の政治家もできないことだろう。
世界危機が発生しても、借金がなく蓄えのある人間にとってはそれほど危機は怖いものではない。
日本の立場を考えるとあまりにも心持たないのは事実だ。
北野氏はかの有名なロシア情報分析官である佐藤優氏の著書を引用し、「新聞情報」の重要性を訴えている。
常に時事情報の中から世の中の隠された意味を見出す努力が不可欠だと説いている。
日本人としてこれから行くべき道の理解は、日々の情報収集に基礎とした明確な世界観の確立が必要だと確信させられる。

資格とのつきあい方がよくわかる本

もう、資格だけでは食べていけない

もう、資格だけでは食べていけない

  • 作者: 横須賀てるひさ
  • 出版社/メーカー: すばる舎
  • 発売日: 2011/04/16
  • メディア: 単行本
 
ごく普通の人でも資格を取ってきちんと稼げる本

ごく普通の人でも資格を取ってきちんと稼げる本

  • 作者: 横須賀 てるひさ
  • 出版社/メーカー: インデックス・コミュニケーションズ
  • 発売日: 2009/03/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
資格起業家になる!成功する「超高収益ビジネスモデル」のつくり方

資格起業家になる!成功する「超高収益ビジネスモデル」のつくり方

  • 作者: 横須賀 てるひさ
  • 出版社/メーカー: 日本実業出版社
  • 発売日: 2006/12/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
前職の頃から特に強く考え始めたことだが、これまでの人生で「手に職」といった技術や知識を身につけてきたわけでもない自分にとって、将来的な経済基盤の形成は非常に重要な人生のテーマとなってきた。
そこからいわゆる「資格」とか「士業」といったものに関心が強く向くようになった。
自分の仕事(翻訳関連)とのつながりでは特許分野が比較的近いようにも思えたので、その方面の会社に挑戦したこともあった。
また昨年来会計関連試験に向けた勉学にも取り組んではいる。
ただ結果的にはこれまでのところ自分の専門分野として定着していないので、いまだ趣味段階で留まっているというのが現実だ。
今の時代、いつ職がなくなってもおかしくない。サラリーマンは戦々恐々とした生活を送っている。程度の差こそあれ、誰もが会社に頼らずに生活の糧を得る必要性を感じている。国も会社も頼りにできない時代を生き抜く力が必要だというのは国民共通の認識だろう。
でも実際には事はそう簡単ではない。無から有を生み出すことは誰もができることではない。だからこそ人々は「需要」の見込める場所に集まろうとする。その機会を提供してくれるのが「資格」だと信じて。問題は、その「資格」なるものと取得すれば自動的に仕事が入ってくると錯覚していることだろう。確かに過去にはそういう時代もあっただろうが、今は士業も時代の流れには逆らえない。
「資格起業家」の育成を目指す横須賀氏の3冊の著作を読書後、「自分のやりたいことは何なのか?」という根源的なテーマについて改めて考えさせられた。別に「資格」という問題に限らず、我々は忙しさにかまけて最も重要なことをすぐに忘れてしまう。否、忘れてしまうのではなく無意識のうちに避けようとするというのが現実だろう。でもそれではだめですよ、というのが著者の主張であり、我々が今の時代に忘れてはならない課題なのだ。
著者自身は「資格」の価値をはっきり認めている。自己の人生において唯一の武器となり、信頼の醸成に役立った「資格」。しかしだからこそその問題点も明確に指摘している。「失敗する多くの人が、「自分」ではなく「資格」を中心に考えてしまっています」と著者はいう。「資格を取ってどのような状況を実現したいのか?」ということをうやむやにしてはやっていけない時代にいるのに、往々にして「資格取得後の人生戦略についても、誰かに答えを聞いてしまう」ということが発生する。現行教育制度の問題もこれも同根だと考えられる。
資格ものの書籍については当ブログで何度かコメントを書いているが、今回はその記述の中で自分の将来像を整理してくれる内容があった。
結論から言うと、最終的には自分固有の「コンテンツ」を持たなければならないという話だ。
士業に限らず、自分が仕事において究め、他の人にそれを伝承することのできる一分野を如何に確立するか?
毎日時間が洪水の如く流れていく現状の中で、決して譲ることのできない自分の目的を明確にするための訓練だと理解させてくれたシリーズだった。