「共感性」を忘れてはいないか?

月刊・日経ビジネスオンライン 震災で問われる「メディアの使命」

 東日大震災の津波の被害を受けた東北の沿岸部。その凄惨な状況はテレビや新聞、雑誌、オンラインで繰り返し報じられてきました。私も何度か被災地を取材しましたが、あることに気づきました。取材が難しい場所に、多くの海外メディアが入っているのです。震災直後もそうでした。被災地の海岸は、交通が寸断されていて、携帯電話もまったくつながりません。ところが、外国人記者たちがカメラを担いで、取材を続けているのです。

 その時、欧米で特派員を経験した先輩記者に聞かされた言葉が頭をよぎりました。

 「日本人記者は報道の最前線でほとんど命を落とすことがない。欧米の記者に比べて、その数が極端に少ない」

 もちろん、死亡者の数を競う必要などありません。できるだけリスクを抑えて取材すべきことは当然です。しかし、この傾向は、報道機関が「メディアの使命」をどう捉えているのか、日本と海外の格差を象徴しているように感じてなりません。

 今回の震災で、なぜ世界は日本のニュースが溢れ、援助や義援金が次々と届いたのか。一方、日本と日本人は、なぜ世界の災害に対して、機敏な援助ができない失態を繰り返すのか。それは、自戒の念も込めて言いますが、メディアにその主因があると思います。

 特に米国では、新聞の一面を日本のニュースが埋め続け、テレビも連日のようにトップニュースとして東日本大震災を扱いました。

 このことが、米国人の心に少なからぬ影響を与えています。4月のランキングで5位になった『アメリカ人よ、なぜ鶴を折る』は、全米で広がる折り鶴現象をリポートした記事です。米国人が義援金だけでなく、「心のつながり」を示したいと、あらゆる都市で人々が自然発生的に集まり、千羽鶴を折っているという内容です。こうした流れを後押ししているのは、被災地に乗り込んだリポーターたちが送り続けている映像と原稿に違いありません。

 それに比べて、我々日本人は、米国南部を襲ったハリケーンカトリーナ後の復興に、どれだけ支援ができたのでしょうか。堤防の決壊によって家を流され、ニューオリンズに戻れなくなった多くの黒人たちの心の支えになれたでしょうか。

 ほとんど何もできなかったのは、日本人の「無慈悲」にあるのではなく、メディアの怠慢にあると考えるのは間違っているでしょうか。


確かにメディアにも問題はあるだろう。
それでもやはり自問せざるを得ない。

我々日本人は日々の生活で「共感性」を忘れてはいないか?と。

確かに有事の際の行動では世界に驚嘆を与える内容を有している日本民族かもしれない。
しかし本来それは日常生活における人間関係で築かれるべきではないだろうか?
コミュニケーションの希薄化が叫ばれて久しい中、この震災を機に今一度自分たちの生活を振り返るべきだと自戒したい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です