この国の政治はなぜかくも劣化したのか―― 被災地無視の菅内閣不信任騒動で極まった 「選良」たちの厚顔無恥と議員内閣制の制度疲労|ポスト3.11の論点 日本と日本人の選択肢|ダイヤモンド・オンライン
震災対応のふがいなさと不信任案を巡る混乱を引き起こしている政治体制の問題点を的確に解説したダイヤモンド・オンラインの記事。その一部を引用したい。
被災地が局地的であろうが、広かろうが、命と生活を維持するための時間は同じである。初めての出来事が多いからこそ、前例にとらわれることなく、官僚や公務員の限界を突破する指導力を発揮すべきだった。それこそが政治主導であろう。
総理の口から出てくるのは、誠意を持って精一杯やっている姿勢を認めて欲しいということばかりである。自らが何に対して、責任を引き受け、その結果に対して、どのような責任をとるのか、その決意はうかがえない。
次に、小沢一郎元代表である。そもそも「菅首相では、今回の危機は乗り切れない」というのが、反旗を翻した大義名分だとすれば、退任表明しただけで手のひらを返したように、態度を変えることは辻褄が合わない。復興基本法案、第2次補正、終息の見えない原発問題を、菅総理に任せることになるからである。
首相交代とマニフェストの実現が、小沢元代表の信念だとすれば、党を割る覚悟で臨んだはずである。だが、筋を通したのは松木兼公、横粂勝仁両議員の2人だけであった。結局は、長年続いてきた菅氏との遺恨による菅降ろしが目標であり、民主党政権は維持しながら、閣外から政権に影響力を保持するのが目標だったと断じられても仕方ない。
鳩山由紀夫前首相もまたしかりである。「党を割りたくない」として動いたと言われるが、何のために割りたくないのかが明確でない。いまのように政党の体すらなしていない民主党政権であれば、党が割れて下野するのも、また政治家の良心ではないのか。昨年6月の首相辞任から引退の撤回、今回の行動に至るまで、国民は「この人は一体、何を考えているのか」という評価が見えていない。結局、小沢氏と同じく民主党政権を維持し、自らの影響力、存在感を維持することが目的としか思えない。
菅、鳩山、小沢の旧トロイカ三人衆だけではない。民主党の衆参150人及ぶ1回生(新人)議員たちもまた期待外れだ。この議員たちこそ、いま国民(市民)が何を政治に望み、どう評価しているかを、市民の常識を持って感じ取り、それを表明できたはずである。政権奪取後、わずか1年半余りにして、永田町の論理に染まったとすれば、彼らの責任は大きい。
そして自民党を中心とする野党である。菅首相が退陣すれば、なぜ局面が大きく開けるのか、その具体的な展望を示すことができなかった。そればかりではない。特に自民党は、これまで原発推進してきたことに対する真摯な総括すらできなかった。これでは国民から不信任案は菅降ろしだけが目的の政争の具と判断され、支持を得ることができなかったのも、むべなるかなである。
こう見て考えると、政策の優先課題もそっちのけで、低次元の権力争いが繰り返すいまの国会議員に国を運営する資格はないと、国民は三行半を突き付けることが必要なのかもしれない。
では、なぜかくも自民党政権末期以来、政治の質が劣化してしまったのか。一つには人の質の問題、もう一つには制度の問題があるだろう。
今回の震災対応にみられるように、現在の議員内閣制がすでに制度疲労を起こしているなら、この国を治める仕組みを改革する必要がある。制度が人を鍛え、考え方に影響を与えるからだ。方法としては、大統領型に近い首相公選制、あるいは各党の代表を首相候補として選挙を戦う(与党首が変わる場合は選挙を行う)といった仕組みが考えられる。この国を治める仕組みの改革が、中長期的な課題である。
短期的には、日本の意志決定には時間がかかることと、政治の不毛を考えれば、国政には多くを期待しないことだ。もちろん、どのような制度をつくろうが、「この人が言うのであれば」「この人のためならば」と人を動かす政治家個人の“魅力”が、最も重要であることは否定しない。しかし、トロイカ三人衆にお引き取り願うのは当然として、いまの政界のだれに期待しろと言うのか。せめて国会は、2次補正、3次補正予算を早期に成立させて、一刻も早く使途限定のない財源を地方自治体に渡すこと、それが復興をじゃましない最良の方法なのかもしれない。
あとは、地方自治体と住民が、自らの未来を自らで決めていくしかあるまい。それが悲劇を通り越して、滑稽とさえ言える我が国の政治の現実である。