速読術の本が速読できた!?

齋藤孝の速読塾―これで頭がグングンよくなる!

齋藤孝の速読塾―これで頭がグングンよくなる!

  • 作者: 斎藤 孝
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/10
  • メディア: 単行本

「速く本を読みたい」。その一心でいくつかの速読本を借りてきたが、まず自らの読書欲の琴線に触れたのがこの一冊だった。
これまでも本を素早く読めるよう自分なりに努力してきたつもりだったが、それがあながち間違いではなかったことがこの本を通じて証明された気がする。
そして本文中のアドバイスに従って、この本自体もあっという間に「速読」できてしまったのだった。

最初に飛び込んできたモットーが「読んだあと、書評を人に言うのだ!」という文言。
つまり自分がここに書評を書いている動機と一致している。
人に良い本を伝えたいという願望があれば自ずと出てくる力とでもいうべきか。

全くをもって同感だったのは「まず最初に本棚を買おう!」という「殺し文句」だ。
自分も中学二年生の誕生日プレゼントに本棚を買ってほしいと親にせがんだのが今も記憶に新しい。
「本は、背表紙がいつも見えている状態こそが重要なのです」と説く斎藤先生の話は心の底から感銘を受ける。
やはり愛読家の感性というものは皆同じなのかもしれない。

そして最後、今回得た大きな収穫は「音速読」という指摘だった。
これは別の場所で聞いたことがあったが、ちょっと訝しさの残る話だったのであまり真剣に考えていなかった。
しかしこれを斎藤氏が実験をもってその成果を証明しているということには大きな意味があると理解した。
なかなか機会がないかもしれないが、今度うちの子と一緒にやってみようと思う。
敬愛する文先生も、学生時代に口の中に石を入れて早口で言葉を語る練習を行ったと聞く。
これがいわゆる「訓読会」の真価なのかもしれない。

 

「恋愛」と「合コン」の末路 - 究極の結婚観とは?

普通のダンナがなぜ見つからない?

普通のダンナがなぜ見つからない?

  • 作者: 西口 敦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2011/05
  • メディア: 単行本
 
自由恋愛がもてはやされる現代社会で男女が呻吟している。
「結婚相手が見つからない」と嘆いているのだ。
同書はその現実と事実を克明に伝えている。
 
現代社会の男女の期待は年を重ねる毎にことごとく裏切られていく。
①20代前半、10代で夢見た「恋愛」が夢のお話しであることに気付く。
②20代後半、 「合コン」でも出会いの機会が限定的であることに気付く。
③30代前半、いわゆる「普通の生活」を提供してくれる異性がなかなかみつからない。
そして30代後半から40代へ、既に異性を探す手段さえみつからなくなる。 
 
なぜそうなるのか?ここで問題点を指摘してみよう。
①「恋愛の神様」がいないと難しい 
②自分の素性を知る人がいないと難しい
③結婚の真の価値が見えないと難しい
 
実は結婚を達成するために必要な本来の手順は③→②→①と全く逆であるはずなのだが、多くの男女がこれに気付かず、しかも①②③の各段階で正しい視点が欠落しているため困難はさらに増幅する。
 
つまり結婚の本来の姿とは以下のようなものとなる。
③' 結婚の真の価値が分かれば相手の外的要件は中心的な問題とはならない
②' 自分の素性を知っている人に的確な伴侶の選択を委ねることでマッチング機会が広がる
①' 男女の間に天が介在するようになって初めてその「出会い」に究極の価値が付与される 
 
天はこのような恵みをすべての人々に等しく提供するため、時代の「しるし」を示して下さった。 
それがつまり統一運動による「祝福結婚」という史上最大のイベントだ。
世界の人々の間にそのような認識が広がる日もそう遠くはないとの理解を深めてくれた「恵みの書」であった。
 

人生の節目である40代までに読んでおきたい本

最近人生の展望が見えづらくなることが多々ある。
それは正に「自分の人生哲学を確立せよ」という天からの声だと思う。
わかってはいるのだが、じゃあ具体的に何をどう考えたらいいの?と思うとこれがなかなか大変な作業だ。
20代の若者ならまだしも、既に人生の半分を越えるか越えないかの時期に当たっている自分。
図書館で「40代」関連の話題はないかと必死の検索を試みたら、面白い本と出合った。 
 
 
自分に適した仕事がないと思ったら読む本―落ちこぼれの就職・転職術 (幻冬舎新書)

自分に適した仕事がないと思ったら読む本―落ちこぼれの就職・転職術 (幻冬舎新書)

  • 作者: 福澤 徹三
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2008/01
  • メディア: 新書
 
 
 
 
本文から特に興味のある文章を抜粋してみる。
 
仕事にやりがいを求めるのはともかく、楽しさを求めるのも無理があります。
仕事の楽しさというのは、何かを達成したときに感じるもので、仕事そのものが楽しいのは極めてまれです。大手企業の「おいしい仕事」であっても、所得や待遇はいいにしろ、必ずしも仕事自体が楽なわけではありません。
昔の商人ふうにいえば「働く」とは「はた」を「楽」にするのであって、自らが楽しむのは娯楽です。一般的には娯楽でも、仕事となったら意味が異なるのは、棋士やスポーツ選手を見ればわかるでしょう。
古臭い考え方かもしれませんが、自分が汗を流した分、まわりの人が楽になったり、喜んだりする。 その対価として所得があると考えるのが自然だと思います。
 
この世のどこかに「自分に向いた仕事がある」と信じて、それさえ見つかればすべてが解決するというのは、いわゆる適職信仰です。
適職とは平たく言えば「自分にあった仕事」、つまり「自分らしさ」を発揮できる仕事です。「自分らしさ」とは何かというと、その人の持つ個性です。
幼い頃から天才的に絵がうまいとか、運動神経が抜群という子もいますが、それは個性というより、持って生まれた天分です。天分を伸ばすのも教育の役目ではあるものの、それは生徒全体ではなく、個人に対してなされるべきです。だいたい凡人が大多数だから個性が映えるので、全員が個性的なら、天分は埋もれてしまいます。
適職を求める若者にしても「自分らしさ」を口にするわりに、それほど個性は感じられません。似たようなファッションを身につけて、似たようなファーストフードを食べ、似たような言葉で喋り、似たようなバイトをし、似たようなテレビ番組を観て、似たような漫画や雑誌を読み、似たような生活にあこがれる。
全員がそうだと決めつけるつもりはありませんが、人とはちがうと思っていても、はたから見れば大差ないのが自分というものです。
みんなと似たような日常から「自分らしさ」が生まれるとは思えませんし、少なくとも「自分探し」までして見つける必要はないでしょう。
個性とは最初からあるものではなくて、自らが育むものです。世の中へでて、さまざまな経験を積むうちに芽生えてくるのが、ほんとうの個性だと思います。
 
世の中には、免許も資格もいらない仕事がたくさんあります。
免許も資格もいらないのですから、これらの肩書きは自称したっていいのです(大学教授は別ですが)。しかし、それでは生活できないし、まわりも認めてくれません。プロを名乗るためには、とりあえず企業に入るしかありません。
けれども、ただ就職するだけで、様々な肩書きが手に入るのは魅力的ではないでしょうか。それがおもしろくて、私は求人情報を読み続けていたのです。
「人生における大きな喜びは、君にはできないと世間が言うことをやることだ」というのは、イギリスの経済学者、ウォルター・バジョットの言葉です。
 
世間は多くの場合、その人の立場を見た目で判断します。
おなじ人物でも、公園で寝そべっていればホームレスだと思うし、教壇に立っていれば教師だと思います。
また、人は置かれた立場にふさわしい行動をします。家もなく無一文なら残飯を漁るでしょうし、教壇に立つのなら、それらしいことを喋るでしょう。
したがって、なりたい者があるなら、まねればいい、なりたい者を演じればいいのです。ひたすらまねることが、なりたい者になる唯一の道です。
まねる対象は、なにも生きている人物に限りません。
書物のなかには、偉大な先輩たちの言葉がぎっしり詰まっています。あらゆる事例に関する、あらゆる答えがそこにあります。この本に格言や箴言を多く引用しているのも、若い人たちに先輩たちの知恵に触れてほしいからです。
そういう意味では、この本だってまねです。自分の体験などごくわずかで、あとは過去に読んだり聞いたりした先輩たちの意見を受け売りしているにすぎません。
ただ、長年まねているうちに血肉に溶けて、どこからが受け売りでどこからがそうでないのか忘れているので、本を出すような図々しいことができるのです。
もっとも、いくら先輩たちをまねても、完璧にはなりません。まねてもまねても、どこかにちがう部分が出てきます。それが、そのひとの個性です。
 
自分より年下の人間にぺこぺこするのはつらいものです。
私のように無
学な者でもそうなのですから、学歴のある人はなおさらでしょう。学生の頃は、自分が一番下っぱだと思っていますから、 誰にでも頭をさげられますが、少し歳をとると、年下の同僚や上司が出てきます。
「頭のさがるうちが華」というゆえんです。
けれども、歳をとってしまったものは仕方がありません。分からないことがあったら、なおに頭をさげて、教えを乞う姿勢が大切です。弱さをさらけだすのも、ひとつの強さだと思います。
頭をさげるのに屈辱を感じるなら、それは自分がまいた種であって、他人を恨む筋合いのものではありません。むしろ屈辱をばねにして、仕事に意欲を燃やすべきでしょう。
 
ひとに意地悪をする人間というのは、たいてい職場で孤立しています。周囲から理解されない鬱憤を、意地悪で発散している場合も多いでしょう。それだけに自分を理解してくれる人間には、打って変わって胸襟を開くものです。
もし職場にあなたの苦手な人物や、あなたを嫌っている人物がいたら、ぜひとも近づいてみてください。用もないのに近づく必要はありませんが、仕事で接点があるときは積極的に話をしてみましょう。
その際にこちらが意見をいうのはもちろんですが、それ以上に相手の話を聞いてあげるのが大事です。「話し上手は聞き上手」といわれるとおり、話を聞いてあげることで、相手の気持ちはやわらいできます。相手の気持ちがやわらぐことで、こちらの意見も通りやすくなるのです。
もちろん最初の段階では「おれが嫌っているのが分からないのか」とばかりに、やっきになって攻撃してくるかもしれません。
しかしそれを受け流していると、相手は当惑します。「こいつは、なんで近づいてくるんだろう」と思ってくれたらしめたもので、相手はあなたのことを考えはじめます。
相手があなたのことを考えはじめたということは、あなた自身がそうであったように、理解への一歩を踏み出したのです。
 
自分としてはここにもう一冊、過去に読んだ名作を付け加えたいと思う。
 
 
納棺夫日記 (文春文庫)

納棺夫日記 (文春文庫)

  • 作者: 青木 新門
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1996/07
  • メディア: 文庫
 
なんで「おくりびと」の原作が登場するのかというと、この2冊、非常に似ていると直感したから。
人生の辛苦を味わってきた二人の作家から、共通する心の叫びが聞こえてくる。
前者はそれが世俗次元に止まり、後者は宗教次元まで移行してはいるものの、その本質はそれほど違いがない。
彼らの生き様は「他の為に生きる感謝の人生」という言葉に集約できると思う。 
 
短い人生行路の中で人々は「自分探し」に彷徨うが、それは自分の為に生きても成し遂げることができないことを教えてくれている。
信仰を持つ立場にいたとしても、ややもすれば物事の本質から外れやすい世俗社会の中で、 世俗を底を知り尽くした彼らの到達点は年齢を超えた希望の灯として輝いていると確信する。
 

「エコ」も大事だけれど

将来の展望を描いている自分が最近あるきっかけで「eco 検定」なるものと遭遇した。 
これはこれでかなり興味ある内容なので、あとで書籍を買って勉強してみたいと思っている。

問題は日本の巷に溢れる「エコ」感覚がかなり怪しそうだという点を指摘している書物とも同時に遭遇したことだ。
ただこれらの内容はある程度以前から知っていた部分があるが。
以下の二つの本が非常に参考になった。

ほんとうの環境問題

ほんとうの環境問題

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/03
  • メディア: 単行本

 

これって本当に“エコ”ですか?―不思議の国の「温暖化」さわぎ

これって本当に“エコ”ですか?―不思議の国の「温暖化」さわぎ

  • 作者: 小林 公吉
  • 出版社/メーカー: 木魂社
  • 発売日: 2009/10
  • メディア: 単行本

 

2冊とも環境問題の主要テーマは「エネルギー問題」だと言っている。 
どんなに「エコ」政策を進めても、エネルギー消費自体を減らさないと意味がないということだという本質部分を突いている。
この手の「目から鱗」本は大好きだが、これが科学的裏付けを持っているという点が注目に値する内容だと理解している。
実際に環境問題は長期的な視点と解決方法が必要な難しい問題であり、筆者たちも具体的な解決法案まで提示できているとは見えないが、それでもマスコミに広まる二流意見に流されない視点が持てるという点では一読の価値は高い。

無論これらの本が書かれたのは原発事故以前の時期だ。
現時点での日本においては間違いなく放射能汚染が第一義的な問題となっているため、その他の環境関連分野についてはインパクトが少ないかもしれない。
それでもやはり、将来の人類の安定性は環境問題と切り離して考えることは不可能な時代となっていることから、我々には幅広い総合的な視点が必要だと痛感するのである。

 

「生と死の意識革命」が国を救う

すべて、患者さんが教えてくれた終末期医療のこと

すべて、患者さんが教えてくれた終末期医療のこと

  • 作者: 大津 秀一
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2011/01/19
  • メディア: 単行本

この本は本当に深い感銘の書だった。
それは現代医学の立場で生死の価値の問題に触れているからだ。
数多の人の死と向き合い続ける医師の真摯な活動記録と事実告白に裏付けられた言葉は非常に重い。

終末期医療に関する数々の誤解に対して回答するという形で内容は進んでいくが、その根幹には「人の死とは何なのか、そして人の生とは何なのか」という根本問題が横たわっている。
現代日本の悲劇 - それは人々が誰しもが通過する現実としての「死」からあまりにも遠ざかってしまっているということ、そして人々はその問題に対処する術を知らないことだろう。
いわゆる唯物論の問題が根底にあり、そこに社会制度事情や浅薄なコミュニケーションといった日本人のマイナス特性が問題を助長していると行間から読み解ける。

以下にポイントを引用したい。

一時の苦しみか、将来に続く苦しみか。いずれにせよ楽な選択はないが、前者の、真実を知ったうえでそれを何とかやりくりし、来るべき日に向けて皆が一生懸命準備をするというほうが、間違いなく良い時間を過ごせるはずだ。真実を知らなければ、「いつか治る」「大丈夫」と考えたまま、時間は尽きてしまうだろうからだ。
心ある医療者はこう考えて、悪いニュースを伝えるのである。

「先生、僕は……最後に『ありがとう』って言いたかった。言えなかったんですよ。……そう、言えなかった。何でだろうね、先生。今なら言えるのに……何で……何で、頑張れだとか、そんなことしか言えなかったんだ!」
本当は、意識がしっかりしている時に、その言葉が言えたら、もっと幸せな最期だったろう。けれども、死期が迫ると急な経過を辿ることゆえに、しばしばこの機会が失われてしまうのだ。
思うより早く最後が来てしまうことは少なくない。「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを」(在原業平『古今和歌集』)なのだ。多くの人が、今日明日が最後と思わずに亡くなっていく。そのことを念頭において、患者さんもご家族も行動していただきたい。

—–

多くのがんの患者にとって抗がん剤の投与は、治ることが目的ではない。なぜなら、多くのがんにおいて、抗がん剤だけで根治は不可能だからだ。治らない病気の場合に抗がん剤治療を行う本当の目的は、できるだけ命を延ばし、(治ることはほぼないので)一方で治療に拘泥することなく、望むことをし、やるべきことをしてもらうためである。
ところが、医師は往々にしてそれを伝えるのに躊躇する。意思がひどいからでは無論ない。「抗がん剤はいつか効かなくなる可能性が非常に高い(実際はほとんど、である)」「だからその時まで時間を大事に使ってください」、私もそれを告げる立場に回ったことがあるが、大変告げにくいものなのだ。下手をすれば「なんでそんな事を言うの!?聞きたくなかった!」と、患者さんに半狂乱になられてしまうこともあるだろう。
だから、「あえて告げない」医師も少なくない。ちょっとだけ、さりげなく伝えて「告知した」ことにする医師も多い。結局、患者は「抗がん剤がいつか効かなくなる」ことを聞かされずに、効かなくなった段階でその事実を知ることになって愕然とするのだ。
根治することは医師がはっきり言わないだけで、実際にはほぼ不可能なことなのだ。ここに医師と患者の感覚のずれが生じ、それがだんだん大きくなっていく……。「治るため」に必死で副作用に耐え、頑張る患者も出てくる。
体の具合が悪いのに無理やり抗がん剤治療を継続することで、治りもせず寿命も伸びず症状も軽くならず、むしろ副作用で苦しみ、抗がん剤治療をするために生きている状態になってしまうのだ。化学療法が手段ではなく、目的となってしまうのである。

その事態を回避するため、化学療法医を始めとする抗がん剤治療に携わる医師は、最初にこの真実を告げなければならない。いや、最初に一度だけ言っても、あまりの腫瘍マーカーの改善ぶりにそれを忘れてしまう患者も少なくない。だから、この現実を何度も何度も、言葉と患者の心情に十分配慮しながら伝えるのが、医師全体の責務だ。
しかし医師も絶対数の少なさから来る多忙で、患者にそれを伝える十分な時間が取れないのも、現状を変えられない一つの原因となっている。腫瘍マーカーの話に終始してしまうのも「時間がないため」という理由が大きいのかもしれない。これからもこの状況は続くだろう。
ではどうしたら良いのか?厳しいようだが、患者にも責任はある。
「この化学療法は根治の可能性はどれくらいあるのですか?私の余命は、データだとどれくらい延長しますか?」、患者に、そう聞くことができるだけの、抗がん剤に対する正しい理解と、どんな答えも受け入れることができる勇気がなければ、この現状は変わるまい。

—–

「人生五十年」だったつい半世紀ほど前までは、成人するころには親がいなかった人も多かったことだろう。または、思春期や青年期に親の死に触れることで、しっかり生きなければならない、そう思い人は大人になっていったのだろう。
いつしか日本人は「死」から遠くなった。
私があれこれ思うようになったのも、同じ年代の誰よりも死に近い人間だからだろう。私より若い二十代の患者さんが死とまっすぐ向き合って亡くなっていく姿を見ると、死とは何か?生きるとは何か?そう考えないではいられない。考えていく中で、その人それぞれの死生観が生まれ、望まぬ延命治療を拒否する下地ができあがるのだと思う。
しかし、多くの人が死からあまりにも遠ざかってしまったため、唐突に死が目前に現れると皆が激しく動揺する。いや、もちろん死を前に動揺しない人などいないだろう。私自身も死が近くなれば確実に動揺すると思う。しかし、普段からその時を想定していた人間とそうでない人間との間には、大き
な違いが生じるものなのだ。だから私は、「死」について考え、家族とそれを話し、己の最後のあるべき姿を見据えてほしいと願っている。
そして死を思うからこそ、人は精一杯生きようとすると思うのだ。それは表裏一体なのだ。命は限られたものだからこそ、強く光り輝くのだと私は思う。限りある生を精一杯生き、人生においてしたいこと・するべきことをやりとげ、思い残すこと少なく、最後に「私は寿命だ」と自ら宣言し、全ての望まぬ治療を拒否して死んでいくのが良い、そう言えるだろう。

—–

患者が窓口で払わなくてはいけない自己負担分の割合は、年々増えている。自己負担の割合が増えているため、
「病院は儲けているなあ」
そういう誤解が多い。とんでもない話だ。
先に述べたように、診療報酬は上がらず、病院の収入も減っているのだ。患者の自己負担が増えても、病院は一銭の得にもならない。要するに国や保険から賄われるお金を減らすための措置が、自己負担の増額なのだ。
また、自己負担が増えれば、結果的に患者の受診を抑制することになる……行政はそう考えている。受信が減れば医療費は下がる、そうすれば保険制度は守られる。
「じゃあ病人は病院にかかるなってこと?」
これはある意味、そのとおりだ。ドライな考えだが、行政の一つの使命は、医療費をあらゆる手段を使って減らし、国民皆保険制度を守ることなのだ。だからはっきり言って、病院にかからず家でいつの間にか亡くなっているような患者が、最も「理想的な」患者と言えるのだろう。なぜならば、それだと医療費は一銭もかからないから……。
建前では「軽症の患者の受診を抑制し、不要な医療費を削減する」と言っているが、軽症かどうか患者自身に判断できない場合も多いだろう。医療費を気にして、本当は重症の患者が病院にかからなければ、患者の命に関わる。いや、そのせいで受診が遅くなれば、病気が重症化し余計医療費がかかるのではないか?というのも事実である。
医療費を減らしたい。行政のこの思惑を我々は理解しなくてはいけない。
しかし、我々の側にも問題はある。確かに日本人は病院にかかり過ぎなのかもしれない。
冬になると病院は風邪患者でいっぱいになる。そして、本来不要だと思われる薬を大量に処方されて帰っていく。最低限の薬のみ処方しようとしても、患者や家族から不要な点滴や余分な処方を要求されることが非常に多い。しかも説明をしても不要な理由をちっともわかってくれず、「当然、受けられるべき医療が受けられないのはなぜだ!」とばかり、騒ぎ立てる人も多いのだ。厚生労働省は、窓口で払う自己負担分を増やすことで、このような本来「不要な医療」を減らしたいのだろう。
結論として、患者も、もっともっと賢くなるべきだろう。

医療によって絶対には生命は守られないこと、それを医療者も患者も家族も、つまり国民皆が知り、そのうえでどう現実に対応していくのか、それを個々人が考え、周囲と共有してゆく必要がある。
必ず死は来る。これを不幸や敗北と考えるのなら、誰もが不幸や敗北で終わる。そうでない捉え方ができるようになれば、患者さんが、死が迫った終末期に何をするのが自らにとって最良なのか、その答えが出せるのではないだろうか。
医師の、医療者全体の、そして医療界全体の意識改革が必要とされており、そしてまた患者、家族、国民全員の死や終末期に対する意識の改革が必要とされているのだ。そのためにも、ここまで書いてきたような、死や終末期、および医療の正しい情報を知ることが、判断材料を得るために重要なのだ。

何より一人ひとりが死について考え、終末期について考え、そして日本の医療の問題点に思いをめぐらせることから始まるのだ。必ず来る死の時に、どうしても周囲は長く生きていてもらいたいと頑張り、望まない治療が施されてしまうことがある。それがあまりためにならないことを知って、事前に意思を表示し、いらないモノはいらないとはっきり言うことができれば、自らの終末期の生の質と量は確保されるのだ。おまけに医療費を削減し、国を守ることになる。
死に対しての意識を改革することが、全ての改革の始まりになると思う。一人ひとりの意識改革が重要なのである。そして、人はどうして生きるのか?そしてどうして死ぬのか?それを一人ひとりが考えることは、医療に限らず、きっとこの世界を変えていくことになるだろう。

著者が他の著書で指摘しているように、終末期医療の問題は宗教的問題と直結する。
どんなに信仰心のない人でも最期まで永遠の世界を否定できる人はこの世にほとんど存在しない。
つまりそれほど普遍的な価値であるにもかかわらず、戦後日本は信仰という内的世界を無視した外的制度のみを西洋から受容し、その後唯物論に価値観の崩壊という悲劇に晒されてきた。
現代社会の問題克服のためには、日本の伝統的死生観の見直しとともに、神への信仰を背景とした隣人愛を基盤とするコミュニティの定立が重要課題として認識されるべきだと痛感する。

改めて自分のライフワークにとっての重要な示唆が与えられた事実を確認しておきたい。

会計学習と税金問題

法人税がわかれば、会社にお金が残る (アスコムBOOKS)

法人税がわかれば、会社にお金が残る (アスコムBOOKS)

  • 作者: 奥村佳史
  • 出版社/メーカー: アスコム
  • 発売日: 2010/06/21
  • メディア: 新書


今年に入ってBATIC(国際会計検定)講座を学び始めた。
某スクールの某講師のことは既に2002年から知っていたので、いつか勉強したいと思いつつ、既に10年弱の時間が経過。
おススメに乗って始めたのはいいが、何せ簿記の知識もほとんどない中で上級英文会計はかなりきつかった。
ようやくテストが終わったが、自己採点の結果はアカウンタントレベルに止まり、目標だったアカウンティングマネジャーには届かず。
さらに勉強を続ける理由づけができてしまって嬉しい部分もあるが、楽な作業ではない…

試験勉強中に参考資料を探していたところ、会社の同僚が「経理って最後は税金処理の問題」と指摘してくれた。
早速それと思しき関連書籍を探していたところ、Amazonで高評価の新書がヒット。
会計の基礎を学んでこそ理解できる内容に納得ができた。
日本社会の理不尽さの源泉を改めて見出したような気分になった。
逆に言うと、この税金問題の改善が日本に活気をもたらす起爆剤になるという予感も。
いろいろな意味でおトクな本だった。

日本人と言語技術教育

言葉の力 -   「作家の視点」で国をつくる (中公新書ラクレ)

言葉の力 – 「作家の視点」で国をつくる (中公新書ラクレ)

  • 作者: 猪瀬 直樹
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/06/09
  • メディア: 新書


昨年から東京都で始まった「<言葉の力>再生プロジェクト」。
日本人が国際社会の一員として活躍する上で乗り越えなければならない壁が「言葉の壁」だ。

これは決して「英語ができないと国際社会で通用しない」とかいう単純な話ではない。
今の日本人は言葉の使い方とはどういうものなのかということを知らないというのが現状なのだ。
「言語技術」という言葉が耳新しいのはそのためで、人が社会活動を行う上で必要となってくるコミュニケーション能力を養う教育が今の国語教育には存在しないという悲劇が我が国の将来を暗いものとしている。
これは政治家・マスコミなど、言葉が商売道具である人たちについても例外ではないため、社会全体が劣化しているのである。
そのため一部の官僚が言葉巧みに国を扇動する余地が生じている。
言語技術教育の重要性に覚醒しその周知に尽力されているつくば言語技術教育研究所の三森ゆりか氏の実績を評価したい。
今こそ日本の将来のために立ち上がる有志が必要な時だと痛感する。

「大切なのは、自己実現でなく共感だ」

やりたいことがないヤツは社会起業家になれ やりたいことがないヤツは社会起業家になれ
(2009/04/22)
山本繁

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先回の書評である『「社会を変える」を仕事にする』を読む前に読んでいた山本繁氏の意欲作。
これも残りを一気に読んでしまった。
(いつまでも未読状態にしておくのは心身ともに悪い)

何といっても、以下の一言が彼のビジョンを明確に表している。

『大切なのは、自己実現でなく共感だ―』

学生起業家だった同氏がある事件をきっかけに自分の人生の目的を見失い、自殺まで考えてたどり着いた常夏の島。
そこで得た答えが「自分の中にニーズはない。だったら他人のニーズのために生きればいいんじゃないか」というインスピレーションだった。
その動機が彼をして「社会起業家」の道を切り開かせる原動力となっていく、正に新しい人生のストーリーだ。

以下に自分自身が共感した内容を連ねる。

『社会企業家に興味をもったものの、何をすればいいのかわからない人も多いかもしれない。誰だって最初はそうだ。まだテーマに、つまりニーズに出会っていないからだ。しかし、僕もそうだったように、追い求めるべき“北極星”は、きっとあなたの内面にある。…何でもいいから連想して、自分をふり返ってみてほしい。自分の中のキーワードがいくつか浮かび上がってくるはずだ。今は過去と繋がっている。未来へのヒントは過去にあると思う。』

『自分史をふり返って自分の個性や強みが見えてきたら、今度は友人でも親でもだれでもいいから、空っぽの心で他人のニーズに耳を傾けてみてほしい。身近な人の声が社会のニーズを知るヒントになる。』

『社会起業に興味はあるけれど何をしたらいいかわからないという人がいたら、フットワークを軽くして何かに参加してみてほしい。現場に行けば、新しい刺激が待っているはずだ。』

『一般的には、やりたいことを仕事にするものだと考えられているようだ。しかし、仕事は手段である。そして、すべての仕事は、「誰か」を「何か」で「笑顔」にすることだと僕は思う。…彼らの声に共感が深まるほど、何とかならないものかと一緒に頭を抱えるようになる。そして、まわりを見渡してリソースを探し始める。』

『やがて、あるラッキーが起きる。ニートの若者が社会に復帰したり、漫画家の卵に家を安く貸してくれる大家さんが見つかったり、中退しようとしていた学生が何か新しいきっかけを掴んだりする。僕らは思う。こんなラッキーがもっとたくさん起きればいいのに、と。そして、ラッキーを細かく分析し始める。なぜそのラッキーは起こったのか。ラッキーが起こる確率を上げるには、どんな仕組みが必要なのか。多くの人に奇跡が起こるように、仕組みづくりをする。これこそが社会企業であり、新たな社会問題解決の手法である。』

無縁社会を彷徨している若者たちにとって、彼の言葉は眩い光で溢れている。

ソーシャルビジネスにみる若者たちの機動力

「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方 「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方
(2007/11/06)
駒崎弘樹

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昨日一日で一気に読んでしまった。非常に読みやすく編集されているからだとは思うが、それだけ著者とサポーターの思い入れが強いと実感した。

今後の自身の活動指針を明確にするためにも、特に肝に銘じておきたいヒントをピックアップする。

問題はつねに、それを生み出す構造がある、そして、その構造に着手しなければ、真に社会問題を解決することはできないのだ。

僕たち社会起業家は、事業を通じて社会問題を解決するモデルを創り出す。あとは、多くの人にそのモデルを真似てもらったり、或いは行政が法制化したりすることでそのモデルが全国に拡散する。
同時に、実際の現場の知識をもってして、誰よりも鋭く制度の欠陥を見破り、政策立案者たちに代替案を届けていく。文句ではなく、クリエイティブな解決方法をあらゆる方法でプロモーションし、政策化をあと押しするのだ。

社会起業家が行うソーシャルビジネスは、たとえて言うと、砕氷船のようになるべきなのだろう。南極の氷を砕く機械を搭載した、小さな、しかし力強い、機動力のある船。その船がそれまで通れなかったところに航路をつくる。タンカーや豪華客船である国や自治体や参入企業は、その後ろを通っていって、規模の大きな仕事をすればいい。

僕たち一人ひとりが社会起業家となって、そうしたソーシャルベンチャーを立ち上げ、育て、羽ばたかせていかなくてはならない。或いはプロボラのように自らの専門性を活かして、ソーシャルベンチャーに欠けている技術を補い、ブレークスルーを起こすことだってできる。政治家や官僚だけが世の中を変えるのではないのだ。「気づいた個人」が事業を立ち上げ、社会問題を解決できる時代になっているのだ。

僕は確信している。なぜなら、僕のような門外漢のド素人によって東京の下町で始まったモデルが、政策化され、似たような事業が全国に広がっていったのだ。自らの街を変える、それが世の中を変えることにつながっていったのだ。だとしたら「社会を変える」ことは絵空ごとではないはずだ。一人ひとりが、自らの街を変えるために、アクションを起こせばいいだけなのだ。

「社会を変える」を仕事にできる時代を、僕たちは迎えている。

NPOが認知されはじめ、社会起業家も、若手を中心にどんどん生まれはじめている。ホームページを作ってインターネット上に公開すれば、あなたの志に共鳴する人たちがメールによってその声を届けてくれるだろう。見知らぬ人たちが難病を持つ子供たちに涙し、家にいながらネットバンキングで大量の寄付を振り込んでもらえる時代なのだ。なんというチャンスだろうか。

正直言って、このような事業に取り組むうえで、若者ほど機動力を有する存在はない。
自分のような子持ち家庭は活動範囲が限られてしまう部分はどうしても否めない。
しかし最も問われているのが強い問題意識と問題解決の意欲だとすれば、まだまだ若い連中に負けるわけにはいかないと思う今日この頃である。

「英語」よりも考えるべき「自分の正体」

英語が社内公用語になっても怖くない グローバルイングリッシュ宣言! (講談社プラスアルファ新書)

英語が社内公用語になっても怖くない グローバルイングリッシュ宣言! (講談社プラスアルファ新書)

  • 作者: 船川 淳志
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/02/22
  • メディア: 新書

昨今話題の「英語公用語化」を取り上げて現代日本の問題を鋭く指摘した意欲作。
著者のテーマは「英語学習の要点」といった話ではなく、「日本人の転換」だ。
低迷にあえぐ日本の現状を考えるとき、我々が気づいていない問題点がそこここに散りばめられている。
改めて自分の行動姿勢を見直すと該当する内容が多く、以下のような痛い指摘もあった。

『欧米人が中国人や日本人と働く難しさについて、よく次のようなことを述べる。
「日本人と働くのも、中国人と働くのも、たやすいことではない。ただ中国人と働いていると何が難しいのかが理解できるが、日本人との課題は、そもそも何が難しいのか、その理解すらできないことだ」』(p.73)

ちなみに自分の留学先はロシアで、イギリスを除く英語圏での経験がほとんどないこともあり、多少の英語コンプレックスがあることは否めない。
一方で「日本人は英語できるよ」と常に楽観視している部分も強い。
それはロシア滞在時代に所属した団体の上司がアメリカ人とイギリス人だったが、たどたどしい英語でもとりあえずは通じていたという感覚があるからだ。
当初ロシア語が話せない欧米人を前にして、「ロシアくんだりまで出かけて行って何で英語で会話しないといけないの?」と腹が立ったが、慣れれば慣れるものである。

そこで実感したのは、中高で学んだ英語の知識が決して無駄にはなっていないということだった。
実は旧ソ連時代は語学教育が高度に専門化されていたため、第一外国語が英語でなくフランス語やドイツ語だけしか学んでいないという学生も結構いた。
彼らに比べれば日本人学生の英語知識は相当なものだと理解していた。
このような基礎が基本的な義務教育を受けた日本人全員にあることを忘れてはならない。
我々の問題はそれを活用する機会に恵まれていないし、活用しようとする意識も薄いということ。
だからそういう環境が提供されれば、それなりに会話能力は向上するはずなのだ。
無論ビジネスレベルを目指そうとすればそれ以後も努力を重ねないといけないことは明らかだが、あとはやる気の問題だ。
著者曰く、我々日本人もまた「グローバルイングリッシュのネイティブスピーカー」なのだ。

新書の最後の方にある著者の言葉が印象的だった。

もうそろそろ、我々も「これだけ飲めばOK」という“魔法の丸薬”や“サプリ”を探し求めることはやめたらどうだろうか。その代わりに、体を動かし、いろいろなことを吸収し、学んでいく。健康の維持と英語力は似ていると考える。
変わらなければならないのは我々自身なんだ―と気づくことが、英語にとどまらず、この国を元気にすることにつながるのではないだろうか
』(p.200)