昭和・平成・令和の激動の中で天皇一家が模索してきた自身の在り方を理解できる貴重な証言。同じ人間、同じ日本人として共感を覚え、深い感銘が湧き上がる内容だった。
何よりも驚かされるのは、戦後の新憲法で「象徴天皇」とされた昭和天皇が各国の要人と渡り合う中でインテリジェンス能力をいかんなく発揮していく姿であり、その活動記録が我々後世の日本人に伝わる形で残されていたことは奇跡ともいうべき事実だ。
非常に微妙な戦後の雰囲気の中で、日本を共産主義の魔の手から守るため、己の命を賭して可能な限りの情報収集を尽くした昭和天皇の歩みがインタビューという形で明らかにされたことは、戦争で国体を奪われた日本人にとってのせめてもの至福だと思う。
その昭和天皇から次世代の教育を託されたアメリカのバイニング女史が、若き日の平成天皇に対してアメリカ民主主義の根幹を支える精神文化を伝える貴重なシーンが出てくる。
バイニングが出会った頃の皇太子は、まだ学習院中等科の学生で、その年齢にしては礼儀正しく聡明だが、どうも自分の意思で行動する意欲に欠ける印象を受けたらしい。どこへ行って、何をして、誰と何を話すか、全てを周りに任せっきりで、それは授業中の態度にはっきり現れた。
「やがて私は、とかくあらゆる決定を他人に任せて何も自発的にはなさらない殿下の受身な御態度を改めたいと思って、『最初に何をしましょう、書取り?会話?それとも読み方にしますか?』などと言い始めた。最初殿下は、『先生の方で決めて下さい』とおっしゃったりしたが、さあさあと促されると、たいてい、一番お嫌いな書取りを初めにするとおっしゃるのだった」
いきなり自由を与えられても、それをどうやって使っていいのか、自分でもよく分からない。教室で戸惑う皇太子の顔が目に浮かぶが、程度の差はあれ、それは当時の多くの日本人に共通していたとも言えるだろう。
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へ。戦況の悪化につれ思想統制が強まり、人々は意見を言う自由を奪われていった。自分の意思で行動するのを放棄させられた末に、戦後、どっと押し寄せたのが米国式民主主義である。だが一旦、思考停止に馴れたら、いきなり自由などと言ってもきょとんとするだけだ。中には、何でも自分勝手に振舞うのが民主主義と勘違いする輩も出る始末だった。
人間にとっての自由とは何か、規律とはどうあるべきか、それを皇太子に教えるためにバイニングは、いかにも彼女らしいやり方を取っていた。
ある日、彼女は生徒たちを連れて代々木にあった米軍用の住宅地区、ワシントンハイツを見学に訪れた。ここは米軍の将校とその家族が居住する区域で、敷地内には教会や映画館、学校などがあり、「日本の中のアメリカ」とも言えた。ここで皇太子の一行は、子供たちの授業を見学したが、彼女の回顧録から引用してみる。
「翌日、いつもの皇太子殿下の個人教授の時間に、アメリカン•スクールでは何に一番興味をひかれましたか、とおたずねしてみた。殿下は即座に『教室です』とお答えになった。私が『どういうわけで?』とおたずねすると、『子供たちが自由にのびのびとしているからです』というお答えであった。殿下は何か考えるように黙っておられたが、やがて、『なぜあんなに自由なんですか』と訊かれた。
簡単な言葉でどう説明したらよいものかと私は思いまどった。『アメリカの子供は大人になったとき自由な人間になろうとしているからです。そしていまのうちに、どうしたら人間はほんとうに自由になれるのか学ばなければならないのです。どうしたら一緒に働けるのか、どうしたら他人の邪魔をしたり傷つけたりしないで自由であることができるのか、を学ばなければならないのです。それを学ぶのは、彼等が学校にいる間なのです』
ややあって殿下はこうおっしゃった—『『アメリカのやり方と日本のやり方とどちらがいいのでしようか』
あからさまな比較をするのはいやだったので、私はちよっと質問をそらせて、『殿下はどちらだとお考えですか』とおたずねしてみた。
殿下はお笑いになったが、すぐ逆襲して来られた—『いいえ、先生にお訊きしているのです』そこで私は正直にこうお答えした—『日本の学校にもよい点はたくさんありますが、私はアメリカのやり方の方がよいと考えます。大人になったとき自由な人間になろうとするのならば、子供のうちにほんとうの自由とは何かを学ぶベきだと思います』」
若き日の平成天皇が自分で考える道を選択し始めたこと、それは正にアメリカのウォーギルド政策により洗脳状態を余儀なくされた日本国民に残された希望の突破口だった。
さらに一国の指導者として未曽有の苦難を通過した昭和天皇がその信念を国民と共有したいという思い、それが著者の行間を通じて伝わってくる。
・・・そもそも昭和天皇は、なぜバイニングを家庭教師に迎え、皇太子に何を学ばせようとしたのか。それは英語だけでなく、自分の意思で行動する力ではなかっただろうか。なぜなら、それが立憲君主にいかに大切か、自らの体験で心に刻んだのが他ならぬ昭和天皇だったからだ。
歴史にイフ(もしも)は禁句だとされる。すでに起きた過去の出来事を、後になって「あの時、こうしていたら」と振り返るのは無意味とも言われる。だが戦後の日本で最も真摯に、この問いを持ち続けたのは昭和天皇自身だったはずだ。
関東軍の暴走による張作霖の暗殺から満州事変、泥沼化した日中戦争と悪化する欧米との関係、そして真珠湾攻撃による全面戦争、これら全ての場面に天皇は立ち会い、後で「あの時、こうしていたら」と自問する瞬間が幾つもあったはずだ。
もし、満州事変で関東軍をもっと厳しく叱責していたら、もし、欧米との和平へより強いメッセージを出していたら、いや、もつと早く降伏を決断すれば、ひよっとして歴史の歯車を変えられたのでは。国中を焼け野原とし、軍人軍属と民間人合わせて三百万以上の犠牲者は出なかったのでは。
先に私は、戦後の昭和天皇が駆り立てられるように国際情勢のインテリジェンスを求めたのは、情報を持たずに国を崩壊させたことへの悔恨の念だったのではと述べた。だが、それと同じく、いや、それ以上に思い知らされたのが、自分の意思で判断し、行動する力の大切さではなかった。
いくら正確なインテリジェンスを得ても、それを自身の判断に生かし行動に移せなければ何の意味も持たない。優秀な情報機間があっても、それを政治家が生かせなければ宝の持ち腐れになるのと同じだ。そしていつの日か、昭和が終わり皇太子が後を継ぐ時、同じ過ちをさせないためにも米国人のバイニングを迎え入れた。その彼女の回顧録には、教室の黒板に「自分で考えよ!」と書いて、生徒らにこう語りかけた様子が残っている。
「私はあなた方に、いつも自分自身でものを考えるように努めてほしいと思うのです。誰が言ったにしろ、聞いたことを全部信じこまないように。新聞で読んだことをみな信じないように。調ベないで人の意見に賛成しないように。自分自身で真実を見出すように努めて下さい。ある問題の半面を伝える非常に強い意見を聞いたら、もう一方の意見を聞いて、自分自身はどう思うかを決めるようにして下さい。いまの時代にはあらゆる種類の宣伝がたくさん行われています。そのあるものは真実ですが、あるものは真実ではありません。自分自身で真実を見出すことは、世界中の若い人たちが学ばなくてはならない、非常に大切なことです」
もう半世紀以上も昔の言葉なのに、今日の世界を考えると予言的とすら言える響きがある。今ではあたかも真実を装った虚構の情報、フェイク・ニユースが氾濫し、ツイッターやフェイスブックを通じて拡散され、やがてそれが現実をも動かしてしまう。「自分で考えよ」というバイニングの言葉は終戦直後より、むしろ現代の私たちに相応しい忠告なのかもしれない。
最後に著者は現代における天皇制の核心を歴史的現実をもって読者に諭すのである。
結局、私たちにとって、日本人にとって天皇とは何なのだろう。確かに戦後の日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定している。が、何度、その文面を読んでみても、自分の中の漠然とした気持ちが消え去らなかった。象徴、シンボルとは何なのか。
まだ雨は降り続いていたが、目の前の群衆の数はさっきより増えているようだった。二重橋や大手町から傘を持つ人々が続々と集まり、年齢もばらばらで、中には家族連れの姿もある。そんな彼らがじつと黙つたまま目を凝らし、おそらく、ここだけでなく、皇居を取り巻く他の場所でも同じ光景が現れているはずだった。
その瞬間、不意に、あの田中清玄の言葉が脳裏に蘇ってきた。晚年の彼が自伝の中で、天皇制を物質の核になぞらえていたのを思い出したのだ。あらゆる物質は核がなければ結晶せず、例えば真珠がそうで、貝の中に小さな粒を入れることで分泌が起こって綺麗な真珠の玉ができるのだという。
「人間だって同じ。哲学のある人、信念を持っている人とそうでない人とでは、大変な違いがある。民族だって同じです。天皇制や王政がなぜ何百年、何千年たっても人類社会で続いてきたかを考えれば、私はまさにそれではないかと思う。民族にはバックボーンが必要なんだ。日本でもごく一部の人問が、共和制にするために、天皇制を除外するというが、できはしませんよ。やったら大変な混乱が起こるし、日本は壊滅します」
「これが平和を保つには一番いい政治体制なんです。自由主義や民主主義が共産主義に取って代われるという妄想は止めた方がよい。これは頭の悪い欧米の連中の考えだ。なぜなら現実はそうはならないじゃないか。国には中心となる核が必要なんだ。ニ千年たとうが三千年たとうがそうだということは、歴史を見れば分かるじゃありませんか」
なるほどね、「象徴」ではなくて、「核」か。
降りしきる雨の中、皇居を取り囲むように集まる人々を思い浮かべながら、もう一度、この言葉を反芻してみる。たしかに、しつかりした核さえあれば、たとえ物質が崩れても再生できる。どんなに国が乱れようと、いつか立派に再建できるのだ。その核を代々受け継ぐのが天皇家だが、これは右翼、左翼とか、保守、リベラルとかいう話でなく、歴史の現実か。そう言えば田中はロ癖のように、こうも言っていたという。
「すべては現実に適合しているかどうかなんだ。イデオロギーなんかに惑わされていたら、何も見えない」