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日本人、キリスト教、そして信仰の意義

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カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

  • 作者: 宮崎 賢太郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2014/01/21
  • メディア: 単行本
最近図書館に本を返しに行くときには必ず新刊コーナーを見ることにしている。そこにはかなりの確率で旬の書物が出ているからだ。今日見つけた本も自分の心の風景を明るくする内容だった。
「「カクレキリシタン」はキリスト教徒でない」というセンセーショナルな理論が興味をそそった。しかし内容は至って真面目なもので、著者の長年の研究成果からくる結論に感銘を受けた。学術的な部分は端折り要点を摘まみ読みしたが、日本人の核心を鋭く指摘するものだった。所謂「カクレキリシタン」と呼ばれる方々がその信仰の総本山であるカトリックになぜ戻らないのか、という疑問が投げかけられている。その最初の答えとして以下のような文章が綴られている。
『カクレキリシタンの信仰の根本は、先祖が命をかけて守り伝えてきたことを、たとえその意味が分からなくなってしまっても、忠実に絶やすことなく継承していくことにあり、その継承された信仰形態を守り続けていくことそのものが、先祖に対する最大の供養になると考えているからです。この理由はカクレキリシタンとしては最もオフィシャルな、そして彼らの信仰意識の顕在化された部分から出てくる最も的を得た回答といえるでしょう。』
ここで筆者は『「カクレをやめたり、カクレの神様を捨てたりすればタタリがある。それが怖くてやめられない」というのが、もしかしたら彼ら自身もはっきりとは気づいていない、もっとも本質的な理由かもしれません』とし、もっとも本質的なポイントとして「先祖崇拝」「奇跡信仰」「タタリ信仰」を挙げている。そして『これらに共通するのは、不思議な力を有する霊的存在への生き生きとした信仰』という結論を導き出している。
著者は『多数の殉教者が出たということは紛れもない歴史的事実で、何かに対して命までかけるような強い信念を有した人々が少なからず存在したことは確か』とし、殉教の事実を否定はしないものの、『しかし、それらの殉教者がいったい何のために、誰のために命を捧げたのかは確認する必要があります』と指摘し、これが『日本キリシタン史理解の急所の一つ』と説明している。つまり信仰の動機に関する客観的な問い直しの必要性を強調しているのである。これは『宣教師と深い交流のあった、高山右近のようなごく一部の例外的な身分の高い武士層を除けば、一般民衆層はほとんど日本の伝統的な諸宗教の教えと、キリシタンの教えの差異をはっきりと理解できていたとは考えられない』という分析からきている。
ここで注意すべき点として、『幕末から明治初期にかけての殉教事件は、キリシタン時代や潜伏時代の殉教とは少し事情が異なっている』という内容を挙げている。後者について著者は当時の宣教師の目的が「殉教」自体にあり、その理由として『殉教者が100%天国への道が約束されていたから』と説明する。一方前者は宣教師と信徒との間に生じた「御恩と奉公」の関係が生まれていたとしている。しかしいずれにしても、一般信徒の信仰の根本がキリスト的一神教に対する確信を普遍的共通要素とするには無理がある、という主張を述べているのである。
これに関連し、著者は「饅頭」の例えで我々の理解を補足している。つまり饅頭は外から見ると中身が「アンコ」(日本的)なのか「クリーム」(西洋的)なのかは判別がつかない。生地がパイからできていれば欧風の香りもするかもしれない。しかし饅頭の最終的な特色を決めるのは中身である。カクレキリシタンの宗教性を調査した結果、その中身は完璧に「アンコ」であり、日本の民俗宗教にキリスト教的な「強化剤」を加えた「ありがたい教え」だったと結論付けている。ここで日本人に特有の「信仰の重層性」という側面が強調されている。そして日本の諸宗教の根底には「祖先崇拝」が普遍的に見出され、『目に見えない、どのような神様なのかすらわからない神よりも、身近に接した自分たちの血につながる殉教した先祖たちの言葉、行いのほうが大きな影響を与えた』のだと解説している。
著者の結論として、『仏様も神様もキリシタンの神様も、先祖が同じように大切にしてきたありがたい神様』なので拝んでいる神様に優劣はないこと、そして日本の宗教が最も大切にしているのが「ケガレ」を嫌う「清らかさ」であることを挙げている。
また西洋のキリスト教については、明治以降の自国文化軽視と西洋文明への憧憬から敬虔禁欲的なバーチャルイメージがいまだに残り、これがキリスト教への敷居を高くしているが、その一方で『私たちが真剣に生きる意味や、さまざまな究極的な問題の解決を模索しようとするとき、先祖より家の宗教として受け継がれてきた仏教や神道は日本人の一般民衆の心の支えとはなりえて』おらず、また現在の学校教育を通じて知らず知らずのうちにキリスト教的世界観に接する機会をもつ日本人の考え方や行動規範はむしろキリスト教的となっているのが現実であり、その意味ではキリスト教の日本布教は一定の成果を収めていると指摘している。
自分としては改めて「キリスト教徒は何か」、「信仰とは何なのか」という深いテーマを考える機会となった。上述した著者の説は決して「カクレキリシタン」の価値や日本の宗教土壌の価値を低めるものではない。悟るべきは結局、各宗教の教義的相違点に振り回されることなく、宗教的実践を通じて培われる人々の和合の精神が重要なのだという点だと理解した。現代人は「人間にとって最も重要なことは何なのか」ということについての考察が至極困難な環境に置かれており、そのためにはまずもって宗教
的な和合があらゆる問題のキーワードになるはずだ。そして日本人はその歴史的事業の推進に対して重要な役割を担うことのできる素質を有していると確信するのである。