隣国に潜む問題と日本の立場

消費税引き上げやTPP参加、法人税率引き下げなどの構造改革政策は正しいのか。そうした改革で先行しているお隣の韓国が豊かな社会になったのかを検証しよう。(経済アナリスト 森永卓郎氏) | SAFETY JAPAN [セーフティー・ジャパン] | 日経BP社

生活用品にしても、中国はあやしげな商品も含めて百花繚乱だが、韓国には国産のものが非常に少ない。下手をすると、中国より韓国のほうが商品の選択肢がないというのが、いまの現実なのだ。つまり、韓国からは「質的な豊かさ」が消えてしまっているのだ。

勝ち組の大企業に就職できた人は、高いボーナスを含め、巨万の報酬を手にできる。たとえばサムスンでは、30代で数億円の年収を稼いでいる人もいる。ところが、その選択肢を逃すと低賃金労働が待っている。ガリバー企業に入れると天国だが、そうでないと地獄が待っているという状況が何をもたらしたかというと、異常なまでの受験競争である。

子供たちは学校の自習室で午後10時頃まで自習した後、塾に向かい、午前1時頃に帰宅の途に就く。ソウルのある繁華街では、2次会を終えたサラリーマンたちが目を赤くして集団で帰り始める頃、目の血走った別の集団がぞろぞろとビルを出てくる。塾を終えたばかりの中学生たちだ。受験戦争の過熱に、韓国政府は、夜10時以降の塾の営業を規制する法案まで考えたという。

「子供と母親が米国に渡り、父親が韓国からせっせと仕送りをするんです」という話を聞いたときには、悲しい父親の気持ちを考えて胸を締めつけられる思いだったが、今やそれは珍しいことでも何でもなく、当たり前なのだそうである。


先日のサッカー八百長問題は、森永氏が指摘する韓国の歪んだ経済構造を象徴する事件だと思われる。
中国は既に韓国に先駆けこの歪みを続けている。
両者の歪みは、地震のメカニズムと同じく、必ず反動となって社会問題を引き起こすことになるだろう。
ある意味日本は、彼らの問題多い経済システムの緩衝材的役割を担わされているのかもしれない。

故に逆の観点から、彼らの問題解決を提案実行できる外交力の強化が今後の日本に求められてる素養だと考える。

 

かくして「日本共産主義」は進行する・・・

【正論】評論家・屋山太郎 公約通り公務員給与2割削減を+(3/3ページ) – MSN産経ニュース

自民党政権の末期、公務員制度改革は、(イ)年金をもらうまで定年を延長する(ロ)その代わり、幹部に限って、人事評価を行う「内閣人事局」を設置し、昇給、降格、給与の査定を行う-ことになっていた。この改革を主導したのは、安倍晋三首相と渡辺喜美行革担当相(現「みんなの党」代表)である。関連法案は次の福田康夫首相の時に成立したが、後継の麻生太郎政権にかけて骨抜きにされた。怒った渡辺氏は党を出た。

脱官僚、天下り根絶を叫ぶ民主党政権になれば、改革は進むと期待した。が、公務員制度の改革を嫌う連合と人事院制度の存続を願う官僚が結託、実質は全く変えず3千億円の目くらましで国民を騙そうという。これが民主党政治の実態か。党内にはなお天下り根絶や人勧制度の廃止を叫ぶ勢力が残っているが、民主党ではもはや改革を実現する力はないだろう。


おそらく安倍・渡辺ラインに官僚幹部は相当焦ったのだろう。
安倍政権時代のバッシングは異常だった。
これを機に官僚・労組・マスコミがグルになった政治体制の愚劣化と制度疲労の悪化は急速に進む。
その結末が3月の原発問題だ。
そして機能不全に陥った国会の裏方では、今この時にも偏向政治勢力が着々とその意思を国政に反映させている。
日本の立て直しに衆院解散が絶対的な必要条件となることがここからも理解できる。

 

ポジティブなリスク認識は心の管理から

自分と自国をも疑う心 – 宋文洲のメルマガの「読者広場」

外国のカントリーリスクばかりが気になるのではなく、自国のカントリーリスクにも着目すれば日本はもっと良くなると思います。「日本は危ない」とメディアで言う人がいますが、どこの何が危ないかはまったくいい加減で、憂国の安売りキャンペーンに過ぎません。本当に危ないと思うならば予防策・対抗策をとるのが人間ではありませんか。

リスク管理は決してテクニックではありません。心の管理です。疑う心、不信の心がリスクへの最強な予防接種です。大地震が日本国のもう一つのカントリーリスクを明らかにしました。それは津波と技術妄信でした。しかし、これらのリスクを抑えるものがあります。それは自分と自国をも疑う心です。


この宋さんの視点は非常に重要だと思いました。
自国を愛するが故に、自国のいい点も悪い点も理解し、それを個人と社会の双方にとってチャンスにしていく。
今の日本の指導層と社会全体に欠けている視点だと思います。

 

人口力が世界を牛耳る時代に(2011年5月25日付世界日報ビューポイントより引用)

人口増加のジャスミン革命(世界日報ビューポイント)

2011年5月25日付の世界日報ビューポイント「人口増加のジャスミン革命」は強烈だ。歴史家の金子氏は中東・北アフリカ地域で革命が連発する理由を非常に明快に説明してくれる。

こうした事件が起きれば、現地から断片的なニュースは入ってくるものだが、暴動の原因がさっぱり分からない。事件がまるで突発的に起きたように映るが、なにか深刻な背景がきっとあるにちがいない。いや、たしかにあったのだった。理由は実に単純明快だった。人口の増加、とくに若年層の人口が急増したこと、とくに若者の人口が増大したことだった。これが並の増加でない。当然、雇用の機会がなく、食料価格が高騰した。今回の暴動の発生地域は大半が石油産出国だし、働かなくても十分生活は保障され、遊んでいても暮らせたものだと思っていたが、現実は20代の若者がなんと人口の半数以上を占めるため、失業者ばかりか、生活困窮者が多いことだった。

日本人にとっては、イスラム教国についてはちょっとぐらい学校で教わっても、また教える方でも理解はむずかしい。アラブ諸国に旅をし、しばらく滞在してもさっぱり実情が分からないのが現実である。反政府騒動だと言われているが、根本は政治的というよりか、若年層の不満の持っていき場がなかったことにあったようだ。

アラブ社会で、いやイスラム教圏で人口問題など聞いたこともない、という人が多いだろう。オアシスからオアシスへと旅するイスラム教徒の中には、生涯50回以上結婚する男は少なくなかった。現在はそんなことはないと言われるが、本当のところは分からない。

ロマンティックなムードを漂わすシルクロードのオアシスも、現実は厳しいはずだ。一定以上の人口は支えきれない。増えれば増えた分を放逐するか、暴動を起こして抹殺する。この“原則”を忘れたのが、今回の近東の騒動の発端である。現在、世界の人口増加は恐るべきスピードである。しかし、ストップをかける萌しが見えない。日本では人口減少化が深刻だ、子供手当だなどと騒いでいるが、世界の現実はそんな甘くはない。間もなく国連は、海外で人口過剰で悩んでいる国から、難民・移民を受け入れよと、半ば強要してくるにちがいない。そのとき日本はなんと答えられるか。

中国然り、インド然り、そしてイスラム圏。ロシアを除く新興国のパワーは「人口」だ。
この世に「人」に優る資産はない。何故ならこの世は「人の世」だからだ。
この当然すぎる事実を西洋圏は完全に忘れている。
忘れていると、いつの間にか自分の隣人は自分と異なる文化圏の人たちになっていくだろう。
実際東京に住んでみるとその兆候はそこここに見える。

こんな時代だからこそ、我々日本人は自身が2000年という悠久の歴史を誇る「国際和合」文化の結実であることを理解すべきなのだ。
これこそが日本人が現代において世界中の民族から受け入れられる歴史的な背景となっている。
つまり漠然とではあるが、世界の人は日本人の中にその素地を認めているのである。
これを日本人が理解した上で真の国際社会構築に尽力するとき、世界は真実の平和社会になっていくだろう。

日本になびく「鉄のカーテン」

情報隠蔽で世界の孤児になりつつある日本。もはやチェルノブイリ当時のソ連以下かもしれない|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

原発事故情報の“鉄のカーテン”は
もはや旧ソ連以上かもしれない

この2ヵ月間、日本では、政府とメディアが一体となって情報隠蔽を繰り返したため、世界中が不信感を表明することに至った。いや、そもそも地震発生直後から、クリントン米国務長官やメルケル独首相らに隠蔽体質を批判されている。

〈ドイツでは、福島第一原発の爆発や火災などに関する日本政府の対応について、不信感を強調する報道が目立っている。

被災地で救援活動を行っていた民間団体「フメディカ」の救援チーム5人は14日、急きょ帰国した。同機関の広報担当者シュテフェン・リヒター氏は地元メディアに対し、「日本政府は事実を隠蔽し、過小評価している。チェルノブイリ(原発事故)を思い出させる」と早期帰国の 理由を語った。

メルケル首相も記者会見で「日本からの情報は矛盾している」と繰り返した。ザイベルト政府報道官は、「大変な事態に直面していることは理解している。日本政府を批判しているわけではない」と定例記者会見で釈明したが、ドイツ政府が日本政府の対応にいらだちを強めていることは間違いない〉(2011年3月16日17時48分 読売新聞)

少なくともこの2ヵ月間で、日本政府は、WHO、IAEA、グリーンピースという3つの国際的な機関と団体を排除し続けてきた。それは世界からみれば、情報隠蔽以外の何ものでもない。

日本が世界の孤児となりはじめている現実を、政府もメディアも国民も直視しなければならない。もはや日本は1986年当時のソ連を笑えなくなっている。

少なくとも、当時のソビエト政府は、事故発生一ヵ月後には住民の強制移住を完了させ、国際機関の査察を受け入れている。

情報公開に関して、現在の日本は、東西冷戦時代の共産国家のそれよりも酷いのかもしれない。


今の日本政府の状況からして、いつかは同様な事態が発生すると危惧していた。
「日本共産主義」の出現だ。
一番の問題は、これによって若者以降の世代が物理的にも精神的にも一生の被害を受けることだ。
そのことを旧ソ連留学でいやというほど見せつけられた。
このまま手をこまねいていれば、国民の知らぬ間に文化共産主義者たちの策略によって暗黒の時代を迎える。
まずすべきことは現行政府を年度内に完全に変えることからだろう。
これはある意味「反共産革命」と言ってもいいかもしれない。

 

スタッフを忘れた経営者?

ゲンダイネット – 東電がJALにならない奇々怪々

【政治・経済】
2011年5月14日 掲載

東電がJALにならない奇々怪々
あまりに理不尽なゾンビスキーム

東電救済スキームが13日、正式決定したが、さっそく国会では、「なぜ、東電はJALのように処理しないのか」と追及された。JALは会社更生法で破綻し、事実上の公的管理の下、100%減資、金融機関は債権放棄した。それなのに、東電は補償は無限なのに、国有化もせず、借金もそのままで、社債も保護される。13日になって枝野官房長官が金融機関の貸し手責任に言及したが、その行方は不透明。揚げ句が電力9社が金を出す新機構設立で全国的な電気代の値上げ必至のスキームなのである。

国民の批判をかわすため、菅首相と海江田経産相は歳費返上を言い出したが、ええかっこしいのパフォーマンスだ。政治責任を感じているのであれば、国で補償してやればいい。東電に責任を押し付けるふりをして、結局、国民に負担を付け回す。自分は責任から逃げて、そのくせ、形式的に歳費だけは返上する。菅の卑しさが見えてくるが、そんなことをしなくても、東電の賠償問題をスッキリ解決する方法はあるのである。

中でも注目されているのが、産業再生機構で活躍した現役の経産官僚、古賀茂明氏が提言した「東京電力の処理策」だ。古賀氏のプランは、会社更生法や民事再生法に近い形を取り、東電の資産売却を進め、株主責任、金融機関の貸し手責任も厳格に求めるものだ。このスキームであれば、国民負担は5兆円近く減るという。

処理スキームは2段階。まず特別立法で「東電経営監視委員会」のような独立組織を設立する。ここが管財人の役割を果たし、東電の資産査定や賠償額確定作業と並行して株式の100%減資、銀行の債権放棄を実施する。最終的には東電を発電会社と送電会社に分割し、発電に関する資産は順次売却する。送電会社は再上場を目指す。この案を採用すれば、発電送電分離が実現し、競争原理が働き、電気代は下がっていくし、東電は発電資産の売却で巨額資金を得られて、人員整理などのリストラも進められる。国民負担なしで、賠償資金を得られるのである。

「東電ほどの大企業ならば企業価値の算定にはプロを使っても半年はかかります。株主責任を問わず債権放棄も求めない今のスキームは拙速だし、野党の理解は得られないと思います。原発事故後、金融機関は東電の資金繰り維持のために2兆円を融資した。これを債権放棄させるのは厳しいという意見もありますが、銀行はボランティアで融資するわけではない。リスクは当然負わなければなりません。このままだと被災者への補償の前に、銀行へ返済されてしまいますよ」(古賀氏)

利害関係者が責任を負う当たり前の案をツブしたのは銀行だ。債権放棄があいまいな政府スキームは東電のメーンバンクが作ったとされる。賠償金は税金と電気料金でまかない、銀行の懐は一切痛まない都合のいいスキームだ。これに保身が全ての経産官僚が飛びつき、官邸も乗った。これが真相だからフザけている。ジャーナリストの有森隆氏はこう言う。

「減資もしない、貸し手責任も問わない。経営責任もいい加減で、会長、社長は次の株主総会で辞めてしまう。退職金はないというが、多分、給料に上乗せされているので、手付かずで終わってしまう。これじゃあ、誰が責任を負うのか。電気料金値上げを押し付けられる国民ですよ。それも大口利用者には特別料金体系があるので、小口利用者である庶民にシワ寄せが行ってしまう。法案の細部の詰めはこれからですが、国民は、よくよく監視しないといけません」

JALも最初は大甘スキームだったが、結局、破綻した。東電も甘い処理は許されない。


これはいくらなんでも酷すぎる。
これでは国の経営者が国のスタッフを生活基盤を破壊してなおかつその修繕経費をスタッフから徴収するのと同じ。
国民をさしおき、その一部でしかない大企業を先立たせてどうするの?
政府は国民全体を見つめてこそ初めて国の政府。
全ての原点はそこにある。

 

日本のリスクは「見ざる、言わざる、聞かざる」

武田邦彦 (中部大学): 「被曝場」と化した学校・幼稚園

かつての日本のほのぼのとした、木訥でも尊敬できる先生方がおられた小学校、中学校はすでに無いと言われています.

それは社会の変化があり、ご父兄が先生を尊敬しないこともあり、また日教組の一部の活動も原因しています.

そして、今は文科省を頂点とした軍隊組織のような古い上意下達の組織になっています.

でも、このようなことはすべて「大人の事情」であり、それで子供が被害を受けるのは可哀想です.

どんなに社会が曲がっていても、どんなに悲惨な仕打ちを受けても、それに立ち上がるのは個人の人間の魂でしょう.


武田教授がブログで必死に訴えている。
教授の指摘について批判的に取り上げる評論家もいるにはいる。
自分は専門家でないのでその真偽は評価できない。
しかし教授の意見がマスコミで取り上げられる機会は非常に少なく、ネットユーザーに限定されていることは確かだ。

彼の指摘を聞いて感じたこと、それは日本最大のリスクである。
そのリスクとは「見ざる、聞かざる、言わざる」の社会状況である。
つまりマスコミで持ち上げられた知識人の「鶴の一声」がすべてであり、それ以後国民は思考停止状態に陥ってしまう。
意見が出しにくい環境、意見を出すと「余計なヤツ」と看做されるという恐怖心、全てが自由意志の発露を塞いでいく。
実は日本にもそこここに穿った意見を主張する方々は多いのである。
しかしそれを自身の行動でその真偽を確かめようとする人々があまりにも少ない。
ここに日本がバブル以降ずっと元気が出ない根本原因があるのではないか?

これを変革していく意思と精神力が現代日本人に備わっていると確信を持って言うことはできない。
明治維新の志士でさえ、日本の変革に外国勢力の力を必要としたのである。
ただし彼らは外国勢力の管理には成功した。
一方、今の日本国民に周辺大国に対して明確な自己主張を行う力が備わっているとは言い難い。
我々はなによりもまず、自分たちのスタンスを確立する必要があるのだ。
しかし現代は非常に複雑化しており、人智だけで正しい展望を見出すことは困難だ。
今日ほど天道に耳を傾ける謙虚な精神が必要とされている時代はないのである。

 

新極東時代の始動がみえてくる

党・政府の大学への干渉が深刻化:日経ビジネスオンライン

中国の総合大学にはどこでも、『新聞・伝播学院』というジャーナリストを育成する学部が存在する。先日、北京大学や清華大学の同学院の教授らとともにあるフォーラムに参加した。そこでの光景に驚いた。時代遅れな発言をする教師がたくさんいたからだ。

「我々の学部では、新華社・人民日報方式の記事の書き方しか教えない。学生たちは卒業したら、お国のための記事を書くのであるから、当然のことだ」

今、中国の大学生は皆「新華社や人民日報が、政府・共産党のプロパガンダの役割しか果たしておらず、そこに真のジャーナリズムはない」という真実を知っている。だから、海外のメディアに触れ、国際的な視野を養おうと努力している。学生サイドの進歩と大学サイドの怠惰との間に存在するギャップに愕然とした。

4月24日、清華大学創立100周年記念のイベントが北京の人民大会堂で行われた。胡錦濤国家主席や習近平国家副主席など共産党のリーダーたちがこぞって出席した。両氏にとって、清華大学は母校に当たる。

数年前から念入りに準備されてきたこのイベントは、以前から中国社会で波紋を呼んできた。まさに「大学行政化」の代名詞として揶揄(やゆ)されてきた。大学は教育と研究の現場であるにもかかわらず、会場の前列に座るのは、ほとんどが共産党のリーダーたちである。イベントには学術的な色彩は全くなく、リーダーたちのプロパガンダ談話で構成される無味乾燥なものであった。

大学当局は、胡錦濤国家主席などOBが帰ってくるということで、教室のリニューアルなど、“お色直し”を徹底した。筆者がよく知っている同大学の女子学生がこう漏らした。「毎日工事でうるさくて。道路は埃りだらけ。勉強に集中できないし、大学のキャンパスという雰囲気がどんどん失われている。生きた心地がしなかった」。

大学は誰のためにあるのか?国家の未来を背負う人材と英知を育むために大学は存在する。近年益々深刻化する「大学行政化」現象を眺める限り、現状は、あるべき姿から刻一刻と離れている。

そんな中で学生たちは、グローバリゼーションに適応し、世界で通用するようになるための価値観やスキルを磨こうと汗を流す。彼ら・彼女らは、国に対してあきらめを感じ、どんどんクールになっている。中国の国家建設を百年の計で俯瞰したとき、この傾向が吉と出るのか、凶と出るのか?

今後の動向から目が離せない。


数々の共産主義国家がいつか来た道、正に20年前のロシアを彷彿させる。
20年来の抑圧が一気に爆発する日も近いだろう。
無論一時は混乱も予想されるが、それなくして中国の真の未来もあり得ない。
中国の真の民主化は韓半島の問題に直結し、新世界へのパラダイムを開放することになる。

 

「誠意」としての「祈り」

アメリカ人よ、なぜ鶴を折る:日経ビジネスオンライン

 募金ができない子どもたちはまだしも、私は鶴を折る理由が分からなかった。被災地に必要なのは鶴ではなくて、義援金や食料、衣服などではないか。

 実際に、私が友人にプリンストン大学の折り鶴プロジェクトを話すと、多くの人が「必要なのは鶴じゃないのにね」と反応した。

 折り鶴を日本に送ろうとした友人が、アメリカにある日本の政府機関や国際交流の団体に問い合わせると、「折り鶴を受け取るのは難しい。日本に送ることができる保証はできないし、かといって頂いた鶴を捨てることもできない」といった消極的な反応が多かったという。

 折り鶴を送ること以外に、やらなければならない仕事が山積しているのだろう。かさばる折り鶴を運ぶのは、物流網が完全に復旧していない状況では容易ではない。

 私はプリンストン大学の学生たちに、「折り鶴はかさばるし、被災者に必要なのはお金や食べ物じゃないのかな」とさりげなく助言し続けた。

 それでも、彼らはひるまなかった。鶴を折るという行為に確固たる意思と自信が満ちているように見えた。

 プリンストン大学で100万羽の折り鶴を集めようと動き出した柴田明日美さんはこう打ち明けてくれた。

 「募金だけでは、何か寂しい気がしたんです」

 地震が起きたとき、アメリカは深夜の午前1時46分。柴田さんは大学の宿題に追われていたが、友人の知らせでテレビをつけた。そして、息を呑んだ。

 「私の大好きな国が…。まさか、冗談でしょ」

 柴田さんはアメリカで育ち、日本にいけば、「自分はアメリカ人だな」と思わざるを得ないこともあるという。それでも彼女は思った。「やっぱり日本が好きだから、何かしないと落ち着けなかったんです」

 アメリカは募金活動が盛んな国だ。学校の食堂やパブリックスペースでは、いつも募金活動が行われている。柴田さんも最初は募金活動が頭に浮かんだ。

 しかし、彼女の心はどこか満足できなかった。

 「募金活動もしよう。でも、それだけではなく、自分も汗をかきたい」

 彼女が思い出したのが千羽鶴だった。1年前、大学の日本語教師だった母親が体を崩した時、中国人の学生が2日間で100羽の鶴を折って持ってきてくれたことがある。

 「母のために時間をかけて祈ってくれた。同じことを被災者の方にしたいんです」

 鶴を折りにやって来たプリンストン大学のクイントン・ベック君は、「小学校の時に友達が白血病になってしまって、みんなで千羽鶴を折ったんだ」と教えてくれた。

 折り鶴は、あっという間に入手できる花束でもなく、財布から取り出すだけのお金とも違う。時間をかけて作り上げるから、それだけ贈った人の気持ちが伝えられると信じている。

 東日本大震災がハイチ地震と違うのは、企画立案者の多くが日本に住んだことがあるか、日本のことを気にかけている人であること。ただ「困っている人にお金を送ろう」という心境とはどこか違う。友達が重い病気をして、そのお見舞いをする感覚に近いのかもしれない。であれば、お見舞いにお金だけ渡す人はいない。お金以上に精神的なメッセージを伝えたい、あるいは日本のために自分も汗をかきたいという気持ちがあるのではないか。


実は日本人には自分たちが気づかずに実践していることがある。

それは「祈り」。

千羽鶴もお百度参りも、全て根本は同じ。
それは「誠心誠意」。
一見何の意味もないことでも、これを心をこめて繰り返すことで多くの人々に影響を及ぼす力が生まれる。
無から有を生み出す実践活動なのだ。
これがキリスト教でいう「Prayer」の本質に通じることを大半の日本人は知らない。

だから我々はまず日々の生活でこの「祈り」を実践しよう。
それがお互いの心に「共感性」が広がっていく出発点となる。

「共感性」を忘れてはいないか?

月刊・日経ビジネスオンライン 震災で問われる「メディアの使命」

 東日大震災の津波の被害を受けた東北の沿岸部。その凄惨な状況はテレビや新聞、雑誌、オンラインで繰り返し報じられてきました。私も何度か被災地を取材しましたが、あることに気づきました。取材が難しい場所に、多くの海外メディアが入っているのです。震災直後もそうでした。被災地の海岸は、交通が寸断されていて、携帯電話もまったくつながりません。ところが、外国人記者たちがカメラを担いで、取材を続けているのです。

 その時、欧米で特派員を経験した先輩記者に聞かされた言葉が頭をよぎりました。

 「日本人記者は報道の最前線でほとんど命を落とすことがない。欧米の記者に比べて、その数が極端に少ない」

 もちろん、死亡者の数を競う必要などありません。できるだけリスクを抑えて取材すべきことは当然です。しかし、この傾向は、報道機関が「メディアの使命」をどう捉えているのか、日本と海外の格差を象徴しているように感じてなりません。

 今回の震災で、なぜ世界は日本のニュースが溢れ、援助や義援金が次々と届いたのか。一方、日本と日本人は、なぜ世界の災害に対して、機敏な援助ができない失態を繰り返すのか。それは、自戒の念も込めて言いますが、メディアにその主因があると思います。

 特に米国では、新聞の一面を日本のニュースが埋め続け、テレビも連日のようにトップニュースとして東日本大震災を扱いました。

 このことが、米国人の心に少なからぬ影響を与えています。4月のランキングで5位になった『アメリカ人よ、なぜ鶴を折る』は、全米で広がる折り鶴現象をリポートした記事です。米国人が義援金だけでなく、「心のつながり」を示したいと、あらゆる都市で人々が自然発生的に集まり、千羽鶴を折っているという内容です。こうした流れを後押ししているのは、被災地に乗り込んだリポーターたちが送り続けている映像と原稿に違いありません。

 それに比べて、我々日本人は、米国南部を襲ったハリケーンカトリーナ後の復興に、どれだけ支援ができたのでしょうか。堤防の決壊によって家を流され、ニューオリンズに戻れなくなった多くの黒人たちの心の支えになれたでしょうか。

 ほとんど何もできなかったのは、日本人の「無慈悲」にあるのではなく、メディアの怠慢にあると考えるのは間違っているでしょうか。


確かにメディアにも問題はあるだろう。
それでもやはり自問せざるを得ない。

我々日本人は日々の生活で「共感性」を忘れてはいないか?と。

確かに有事の際の行動では世界に驚嘆を与える内容を有している日本民族かもしれない。
しかし本来それは日常生活における人間関係で築かれるべきではないだろうか?
コミュニケーションの希薄化が叫ばれて久しい中、この震災を機に今一度自分たちの生活を振り返るべきだと自戒したい。