落合莞爾氏「ワンワールド」シリーズについて

金融ワンワールド 地球経済の管理者たち

金融ワンワールド 地球経済の管理者たち

  • 作者: 落合 莞爾
  • 出版社/メーカー: 成甲書房
  • 発売日: 2012/04/20
  • メディア: 単行本

 

 

最近落合莞爾氏の著書に関心を抱いている。
明治維新にまつわる陰謀論諸説を超え、「國體理論」という壮大な洞察を繰り広げる著者の見識はあまりにも広大であり、未だ明確な全体像を掴めていないのが実情だが、いずれにせよ今の世界が歴史的な宗派対立を導火線として混乱の道へと導かれつつあることは周知の事実だ。
本著は2012年発刊であり、ゼロ金利社会の背後の圧力についての洞察を主眼とするものだが、最近の世界情勢に警笛を鳴らす記述が目を引いたので一部引用しておきたい。

 

 産業社会の維持のために、金融ワンワールドが選ぶ次善(実は最善)の手段として、戦争が浮上してくるでしょう。
 世界は2011(平成23)年秋から、第四次大戦に突入した感があります。第一次は欧州大戦、第二時は世界大戦で、第三次大戦は結局、米ソ冷戦のまま終わりました。これに対し、第四次大戦は近代国家同士の戦争ではなく、各国内での一神教同士の対立を主とした内戦です。むろん根底は種族の生存競争ですから、背後には資源獲得を主眼とする経済問題があります。
 諸賢はご存じと思いますが、一神教が人類社会に及ぼす害毒は、当の一神教徒がほとんど自覚していないか、自覚してもしないふりをしているため、時を経ても改まるとは思えません。地上の経済問題に関わる国家間の武力闘争を既に克服してきた人類には、武力闘争はもはや宗教紛争の分野にしか残されていません。
 第四次大戦のエネミーライン(前線)は、国家間の戦争と違って、各国内を痛感する一本の針金のようなものです。朝鮮半島から始まり、南シナ海を縫ってアジア大陸に上り、タイ、ビルマ、チベットを結び、インド、パキスタンではやや広がり、アフガン、イラク、イランを通ってペルシャ湾を渡り、北アフリカに達します。エネミーライン上の各地では、小規模の戦闘行為がやむことなく陰湿に続くことでしょう。合計すれば数百人の人命が毎日毎日、失われていきます。
 その多くは民間人ですから、これを大戦と認識しない各国政府やマスメディアは、テロだの何だのと矮小化しますから、いつまで経っても解決しません。国連事務総長は仕事ができて大得意でしょうが、いくら安全保障理事会を開いても、ミッテルニヒの名言のごとく「会議は踊る」だけです。
 この内乱大戦は、ユダヤ教・キリスト教・回教の天啓宗教同士、またはその中の宗派同士の争いに発する「一神教対戦」ですから、これを制止するためには、人類は一神教の呪縛から覚めなければなりません。・・・

日本人、キリスト教、そして信仰の意義

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

  • 作者: 宮崎 賢太郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2014/01/21
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
最近図書館に本を返しに行くときには必ず新刊コーナーを見ることにしている。そこにはかなりの確率で旬の書物が出ているからだ。今日見つけた本も自分の心の風景を明るくする内容だった。
「「カクレキリシタン」はキリスト教徒でない」というセンセーショナルな理論が興味をそそった。しかし内容は至って真面目なもので、著者の長年の研究成果からくる結論に感銘を受けた。学術的な部分は端折り要点を摘まみ読みしたが、日本人の核心を鋭く指摘するものだった。所謂「カクレキリシタン」と呼ばれる方々がその信仰の総本山であるカトリックになぜ戻らないのか、という疑問が投げかけられている。その最初の答えとして以下のような文章が綴られている。
『カクレキリシタンの信仰の根本は、先祖が命をかけて守り伝えてきたことを、たとえその意味が分からなくなってしまっても、忠実に絶やすことなく継承していくことにあり、その継承された信仰形態を守り続けていくことそのものが、先祖に対する最大の供養になると考えているからです。この理由はカクレキリシタンとしては最もオフィシャルな、そして彼らの信仰意識の顕在化された部分から出てくる最も的を得た回答といえるでしょう。』
ここで筆者は『「カクレをやめたり、カクレの神様を捨てたりすればタタリがある。それが怖くてやめられない」というのが、もしかしたら彼ら自身もはっきりとは気づいていない、もっとも本質的な理由かもしれません』とし、もっとも本質的なポイントとして「先祖崇拝」「奇跡信仰」「タタリ信仰」を挙げている。そして『これらに共通するのは、不思議な力を有する霊的存在への生き生きとした信仰』という結論を導き出している。
著者は『多数の殉教者が出たということは紛れもない歴史的事実で、何かに対して命までかけるような強い信念を有した人々が少なからず存在したことは確か』とし、殉教の事実を否定はしないものの、『しかし、それらの殉教者がいったい何のために、誰のために命を捧げたのかは確認する必要があります』と指摘し、これが『日本キリシタン史理解の急所の一つ』と説明している。つまり信仰の動機に関する客観的な問い直しの必要性を強調しているのである。これは『宣教師と深い交流のあった、高山右近のようなごく一部の例外的な身分の高い武士層を除けば、一般民衆層はほとんど日本の伝統的な諸宗教の教えと、キリシタンの教えの差異をはっきりと理解できていたとは考えられない』という分析からきている。
ここで注意すべき点として、『幕末から明治初期にかけての殉教事件は、キリシタン時代や潜伏時代の殉教とは少し事情が異なっている』という内容を挙げている。後者について著者は当時の宣教師の目的が「殉教」自体にあり、その理由として『殉教者が100%天国への道が約束されていたから』と説明する。一方前者は宣教師と信徒との間に生じた「御恩と奉公」の関係が生まれていたとしている。しかしいずれにしても、一般信徒の信仰の根本がキリスト的一神教に対する確信を普遍的共通要素とするには無理がある、という主張を述べているのである。
これに関連し、著者は「饅頭」の例えで我々の理解を補足している。つまり饅頭は外から見ると中身が「アンコ」(日本的)なのか「クリーム」(西洋的)なのかは判別がつかない。生地がパイからできていれば欧風の香りもするかもしれない。しかし饅頭の最終的な特色を決めるのは中身である。カクレキリシタンの宗教性を調査した結果、その中身は完璧に「アンコ」であり、日本の民俗宗教にキリスト教的な「強化剤」を加えた「ありがたい教え」だったと結論付けている。ここで日本人に特有の「信仰の重層性」という側面が強調されている。そして日本の諸宗教の根底には「祖先崇拝」が普遍的に見出され、『目に見えない、どのような神様なのかすらわからない神よりも、身近に接した自分たちの血につながる殉教した先祖たちの言葉、行いのほうが大きな影響を与えた』のだと解説している。
著者の結論として、『仏様も神様もキリシタンの神様も、先祖が同じように大切にしてきたありがたい神様』なので拝んでいる神様に優劣はないこと、そして日本の宗教が最も大切にしているのが「ケガレ」を嫌う「清らかさ」であることを挙げている。
また西洋のキリスト教については、明治以降の自国文化軽視と西洋文明への憧憬から敬虔禁欲的なバーチャルイメージがいまだに残り、これがキリスト教への敷居を高くしているが、その一方で『私たちが真剣に生きる意味や、さまざまな究極的な問題の解決を模索しようとするとき、先祖より家の宗教として受け継がれてきた仏教や神道は日本人の一般民衆の心の支えとはなりえて』おらず、また現在の学校教育を通じて知らず知らずのうちにキリスト教的世界観に接する機会をもつ日本人の考え方や行動規範はむしろキリスト教的となっているのが現実であり、その意味ではキリスト教の日本布教は一定の成果を収めていると指摘している。
自分としては改めて「キリスト教徒は何か」、「信仰とは何なのか」という深いテーマを考える機会となった。上述した著者の説は決して「カクレキリシタン」の価値や日本の宗教土壌の価値を低めるものではない。悟るべきは結局、各宗教の教義的相違点に振り回されることなく、宗教的実践を通じて培われる人々の和合の精神が重要なのだという点だと理解した。現代人は「人間にとって最も重要なことは何なのか」ということについての考察が至極困難な環境に置かれており、そのためにはまずもって宗教
的な和合があらゆる問題のキーワードになるはずだ。そして日本人はその歴史的事業の推進に対して重要な役割を担うことのできる素質を有していると確信するのである。
 

働くということ

働くということ

働くということ

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2004/09/18
  • メディア: 単行本


現在転職活動で悪戦苦闘する自分にとって、何らかの力を与えてくれるのではないかという淡い期待で借りてきた本。
正直なところ、「はじめに」と「おわりに」以外あまり読んでいないので上手なコメントができる立場ではないが、かなり分厚い本なのでどちらにしても全部は読めそうにない。
しかも発行年が2004年で、当時とはだいぶ世相が異なっていることも熟読の意欲をそぐ要因の一つだ。
ただ最初と最後を読んで、やはり世の中の人々は「働く」ということにみな悩んでいること、そしてその悩みは人それぞれであること、特に若い世代と熟年世代との格差が広がっていること等々、当たり前だが納得できる記述に改めて自身の転職活動の意義を考えさせられた。
以下印象に残る引用部分となる。

取材の過程で浮き彫りになったことがいくつかあります。一つは世代間に横たわる就労観の溝です。大学の就職課に母親同伴で渋々と相談に訪れる男子学生。大企業への就職には見向きもせず、「起業」を目指してセミナーに日参する大学・高校生。労働市場に参画することが「自立」への第一歩だとすれば、いま、その道筋はかつてないほど多様です。「何はともあれ就職」を選択してきた中高年の世代から見れば、認めがたいモラトリアムとも映ります。
…若い人たちに「同世代のフリーターの増大をどう思うか」と聞いてみたことがあります。大半は「他人に迷惑をかけているわけでもないし、自分探しはいいと思う」「前向きなフリーターだつている」という肯定派でした。むしろ、団塊など先輩世代に対し「ポストを独占している」「退職金や年金を食い逃げしている」と不満を言い募る姿が印象的でした。
若年層の就労システムが崩壊すれば、技術やスキルの伝承は途絶え、年金に代表される世代間の相互扶助のメカニズムまで壊れてしまいます。本格的な人口減少時代が間近に迫るいま、「自分探し」にとどまり続ける若者の姿は、長期停滞する日本経済の未来にも重なって見えます。

もう一つは、誰もが必ずしも働くことをめぐって「最終的な答え」や「単一の価値観」を持っているわけではない、ということです。
誰のために、どんな目的のために仕事をするのか。バリバリとビジネスの最前線で働きたいと思う半面、南の島でのんびりとした生活にもあこがれる。組織の歯車であることには満足できないのに、独立することもそれ以上に怖い。社会に貢献したいのは山々だが、自分の生活や家族も大事……。誰もが迷い、惑い、揺れながら自分の道を探し続けているのです。
…世代を問わず一人ひとりが「働く意味」を取り戻し、見つめ直すきっかけとなるのは、立派な就業支援センターやパソコン研修ではないはずです。親や子、友人、先生といった身近な人たちとの触れ合いや何気ない会話などを通じ、働く喜びを伝え合う機会を持つことが欠かせません。
本書に登場した「働く人たち」の姿は千差万別です。どうかあなたやあなたの友人、先輩や後輩、あなたのお子さんやご両親などの働き方と比べて、それぞれの「位置」を確認してみてください。そして、誰かとそれを話題にして、好悪、共感、反発など感想をぶつけ合ってみてください。案外、自分にとっての「働くことの意味」がそこから見えてくるかもしれません。…

 

サラリーマンと起業の狭間で

独立宣言!カイロプラクティックで起て―格差社会で独立・開業し成功するためのサバイバル・ブック

独立宣言!カイロプラクティックで起て―格差社会で独立・開業し成功するためのサバイバル・ブック

  • 作者: 大川 泰
  • 出版社/メーカー: 現代書林
  • 発売日: 2006/09
  • メディア: 単行本

カイロプラクティックで誰もが成功できる理由(わけ)―感謝されて、楽しく豊かになれる「独立ビジネス」

カイロプラクティックで誰もが成功できる理由(わけ)―感謝されて、楽しく豊かになれる「独立ビジネス」

  • 作者: 大川 泰
  • 出版社/メーカー: 現代書林
  • 発売日: 2007/07/13
  • メディア: 新書

「起業と自立」というテーマで図書館を散策していたときに見つけた本。
1冊目が起業の意義、2冊目が医学とカイロプラクティックの関係という、共に考えさせられる内容だった。

会社勤めの悲哀について、著者は自身の経験を含め強く主張する。
失業者問題の原因は不景気にあるのではなく根本的に資本主義という競争社会にあると説明し、好むと好まざるとにかかわらず、将来的にアメリカ型の資本主義が幅を利かしていくと説く著者の理論展開には納得せざるを得ない。
ここで起業の成功率は1500分の1という厳しい現実があるものの、そこにはある種の鉄則があると強調する。
これは非常に重要かつ明確なポイントと理解した。

1)スモールであること(資産)
2)敗者復活しやすいこと(経費)
3)利益率が高いこと(利益)
4)大手が参入できないこと(競争力)
5)下請けでないこと(自前力)
6)ベビーブーマーをターゲットとしていること(市場力)

ベビーブーマー以後の社会については多少疑問が残るものの、現時点では確かに明確なビジネスポリシーがそこには構築されている。

2冊目では主に現代医学の問題点と時代の潮流に乗るカイロプラクティックの特徴が描かれる。
しかも第2世代の最新理論をベースとする大川学院の教育理念には一寸の隙も見られない。
別に宣伝マンでもないが、勉学と経営の調和を重視する姿勢には見習うべきものが多い。

自分自身はカイロプラクティック自体に興味をそそられるということはないが、過去にサラリーマンを経験した著者の経歴には強く共感を覚えた次第である。

 

旧友の作品

プーチン 最後の聖戦  ロシア最強リーダーが企むアメリカ崩壊シナリオとは?

プーチン 最後の聖戦  ロシア最強リーダーが企むアメリカ崩壊シナリオとは?

  • 作者: 北野 幸伯
  • 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
  • 発売日: 2012/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
いかめついロシア大統領の表紙はあまり好感をもたれないかもしれないが、書いてあることは至って深刻な内容だ。
もちろん全ての人が国際政治に興味を持っているわけでもないだろうが、激動の国際社会で日本人としていかに行動するのか、その行動理念が問われている時代に生きている我々に、一つの示唆を与えてくれる。
北野氏はメルマガで著名なロシア国際政治アナリストだが、その作品は常に祖国への愛国心に満ち溢れている。
彼のテーマは「日本人の自立」。
はっきり言って今の日本人には「自立心」が見られない。
それをプーチンの行動によってはっきりと示している内容が書かれている。
プーチンがしてきたこと、それは
1)財政の黒字化
2)借金の返済
3)外貨準備高の備蓄
であり、これはどの日本の政治家もできないことだろう。
世界危機が発生しても、借金がなく蓄えのある人間にとってはそれほど危機は怖いものではない。
日本の立場を考えるとあまりにも心持たないのは事実だ。
北野氏はかの有名なロシア情報分析官である佐藤優氏の著書を引用し、「新聞情報」の重要性を訴えている。
常に時事情報の中から世の中の隠された意味を見出す努力が不可欠だと説いている。
日本人としてこれから行くべき道の理解は、日々の情報収集に基礎とした明確な世界観の確立が必要だと確信させられる。

資格とのつきあい方がよくわかる本

もう、資格だけでは食べていけない

もう、資格だけでは食べていけない

  • 作者: 横須賀てるひさ
  • 出版社/メーカー: すばる舎
  • 発売日: 2011/04/16
  • メディア: 単行本
 
ごく普通の人でも資格を取ってきちんと稼げる本

ごく普通の人でも資格を取ってきちんと稼げる本

  • 作者: 横須賀 てるひさ
  • 出版社/メーカー: インデックス・コミュニケーションズ
  • 発売日: 2009/03/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
資格起業家になる!成功する「超高収益ビジネスモデル」のつくり方

資格起業家になる!成功する「超高収益ビジネスモデル」のつくり方

  • 作者: 横須賀 てるひさ
  • 出版社/メーカー: 日本実業出版社
  • 発売日: 2006/12/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
前職の頃から特に強く考え始めたことだが、これまでの人生で「手に職」といった技術や知識を身につけてきたわけでもない自分にとって、将来的な経済基盤の形成は非常に重要な人生のテーマとなってきた。
そこからいわゆる「資格」とか「士業」といったものに関心が強く向くようになった。
自分の仕事(翻訳関連)とのつながりでは特許分野が比較的近いようにも思えたので、その方面の会社に挑戦したこともあった。
また昨年来会計関連試験に向けた勉学にも取り組んではいる。
ただ結果的にはこれまでのところ自分の専門分野として定着していないので、いまだ趣味段階で留まっているというのが現実だ。
今の時代、いつ職がなくなってもおかしくない。サラリーマンは戦々恐々とした生活を送っている。程度の差こそあれ、誰もが会社に頼らずに生活の糧を得る必要性を感じている。国も会社も頼りにできない時代を生き抜く力が必要だというのは国民共通の認識だろう。
でも実際には事はそう簡単ではない。無から有を生み出すことは誰もができることではない。だからこそ人々は「需要」の見込める場所に集まろうとする。その機会を提供してくれるのが「資格」だと信じて。問題は、その「資格」なるものと取得すれば自動的に仕事が入ってくると錯覚していることだろう。確かに過去にはそういう時代もあっただろうが、今は士業も時代の流れには逆らえない。
「資格起業家」の育成を目指す横須賀氏の3冊の著作を読書後、「自分のやりたいことは何なのか?」という根源的なテーマについて改めて考えさせられた。別に「資格」という問題に限らず、我々は忙しさにかまけて最も重要なことをすぐに忘れてしまう。否、忘れてしまうのではなく無意識のうちに避けようとするというのが現実だろう。でもそれではだめですよ、というのが著者の主張であり、我々が今の時代に忘れてはならない課題なのだ。
著者自身は「資格」の価値をはっきり認めている。自己の人生において唯一の武器となり、信頼の醸成に役立った「資格」。しかしだからこそその問題点も明確に指摘している。「失敗する多くの人が、「自分」ではなく「資格」を中心に考えてしまっています」と著者はいう。「資格を取ってどのような状況を実現したいのか?」ということをうやむやにしてはやっていけない時代にいるのに、往々にして「資格取得後の人生戦略についても、誰かに答えを聞いてしまう」ということが発生する。現行教育制度の問題もこれも同根だと考えられる。
資格ものの書籍については当ブログで何度かコメントを書いているが、今回はその記述の中で自分の将来像を整理してくれる内容があった。
結論から言うと、最終的には自分固有の「コンテンツ」を持たなければならないという話だ。
士業に限らず、自分が仕事において究め、他の人にそれを伝承することのできる一分野を如何に確立するか?
毎日時間が洪水の如く流れていく現状の中で、決して譲ることのできない自分の目的を明確にするための訓練だと理解させてくれたシリーズだった。
 

割り切れる柔軟性が必要な国

経営改革のためのERP導入―ユーザダイレクトで実現する!

経営改革のためのERP導入―ユーザダイレクトで実現する!

  • 作者: 鈴木 忠雄
  • 出版社/メーカー: 日経BP企画
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本
 
最近あるきっかけを通じてERPに興味を持ち始めているが、図書館に行ってようやく見つけてきた本がこれだった。
正直内容が抽象的でよくわからない部分も多いのだが、その中で心に引っかかる内容が出てきた。
「例えば欧米の企業では、パッケージソフトの導入を自社でやってしまう会社が多く存在します。・・・それで“凄いですね”と言うと、“それが当り前ではないのですか”と逆に聞き返されてしまいます。欧米では、“自分たちで導入できないのなら、なんでパッケージソフトを使おうと考えるのか”という感覚なのでしょう。日本と欧米では、パッケージソフトに対する考え方が全く違うのです。
日本では、やはりパッケージソフトを情報システムという“聖域”としてとらえてしまい、そこはプロフェッショナルであるシステム開発会社や情報システム部門といった専門家がやるべきだ、という固定観念があるのです。・・・これでは、今後自分が使うことになるパッケージソフトの業務プロセスを理解することもできませんし、また導入後に使いこなすこともできません」
「この背景には「国民性」というものも関係しているのではないかと思います。例えば日本では、パッケージソフトを導入するとなった場合、まずパッケージソフト自体の検証から始めるのです。このパッケージソフトは本当に自社の業務プロセスに適しているのかと疑ってかかる。それだけで、約半年は時間をムダにしてしまいます。
一方、欧米では、パッケージソフトはベストプラクティス(最適な実践方法)の集合体なので、信用に足る導入実績などがあれば、それにそのまま乗っかればいいという発想です。・・・こうした発想を経営者自らが持っていて、パッケージソフトの導入をトップダウンで進めるのです。日本でこうした経営者が一般的になるためには、もう二世代ぐらい世代交代が進まないと難しいのではないかと思います。
しかし今の企業を取り巻く環境は、めまぐるしく変化しています。それに合わせて考え方も柔軟に変えていかなければ、将来の生き残りも難しくなってきます」
同書が指摘するように、「IT」は情報システムの専門家だけにしか扱えない専門的なものではなくなりつつある。結局、今までの日本の経営者はITを情報システムに「丸投げ」していたというのが実情だと。しかしこれからは「“道具”としてのITの機能を、経営トップや経営企画部門が十分に学習しておく必要がある」ということだ。決して「ITの技術的な成り立ちを理解するということではなく、そのITによってどんなことができるのかを知っておくということ」が重要となってくる。
ここまで読んで思ったこと。やはり日本人は基本的に「匠」の文化、つまり職人文化なのだなということだ。「匠」は「匠」の意向を尊重し、口出しをしない。情報システム部門は日本人にとって「匠」の領域となっていて、決して単なる「道具」とはみていないのだろう。これでは確かに欧米の経営者についていけないわけだ。
専門家に対する尊敬の念は決して悪いことではないし、それがあったがゆえに日本の高度成長時代も存立しえた。画一的なソフトウェアの世界に満足できず、独自の指向性を追求する国民性は十分理解できる。しかしそれは世界的にみれば異質な世界だし、別の意味でのムダを発生させる危険性を持っている。ここにバブル崩壊後の日本社会の凋落が象徴されていると感じるのは自分だけだろうか。
日本のレガシー文化である「匠」は残していくべき民族的遺産だ。しかし変化する世界に生きる我々に必要なのは、時代に対応する柔軟性だろう。つまり割り切れない部分と割り切れる部分を見定める能力が不可欠な時代となっていることを、日本国民全体が意識するようになることが必要だと思う。
 
「いい大学」といった空想の中で親も先生も思考停止状態となっているような教育体制、「いい会社」「安定した収入」への偏重に傾く社会的価値観、こういったものにいつまでもしがみつくことが国を滅ぼす要因となっていく。そこに国全体が気付いてこそ、日本人は世界に通用する人材を輩出できる国となるのではなかろうか?
 

「無縁社会」と宗教界の課題

お寺が救う無縁社会 (幻冬舎ルネッサンス新書 き)

お寺が救う無縁社会 (幻冬舎ルネッサンス新書 き)

  • 作者: 北川 順也
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎ルネッサンス
  • 発売日: 2011/04/20
  • メディア: 新書
前の2つの投稿で、現代日本の抱える根本問題を考察してみた。
しかし無論、人々はただ単純に手をこまねいているわけではない。
「無縁社会」という空虚な空間が広がる中、人々は昨年の東日本大震災とも相まって「絆」を求めようとする心を高めようとしている。
これに呼応する形で立ち上がる人々が出てきているのは希望だ。
そのうち基本的に宗教の教理を介さないグループがいわゆる「社会起業家」と呼ばれる人たちであり、このブログでも何度か紹介した。
では宗教界は何もしていないのかというと、実際に意識のある方々は増えつつあると思う。
その一例として、上記の著作を取り上げたい。
 
著者は仏教界の人間だが、現代の「葬式仏教」に大きな危機感を覚える有志であり、そのための代案を提示しようとしている。
「宗教法人はその税制上の優遇措置により、公益性という機能を通じて人々にその代価を支払う義務を有している」といった主張に感銘を覚えた。
「「企業の社会的責任(CSR)」という概念が宗教法人に適用されること自体違和感があるが、それを強調せざるを得ない状況が宗教界にある」ことに対して率直な反省を表明している点について、非常に大きな示唆を与えられた。
翻って自分自身はどうだろうか?
常に反省すべき人生だと痛感させられるのである。
 
 

「エンバーミング」の考察

エンバーマー

エンバーマー

  • 作者: 橋爪 謙一郎
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2009/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
数時間で一気に読みこんでしまった。
最近まで「エンバーミング」という言葉の意味を知らなかった。
いわゆる「ミイラ」に近い意味なのかなと思っていたのだが、実際には「おくりびと」に近い内容だったことが分かり非常に面白かった。
実際、著者は映画の製作にかかわっているところも初めて知った。
「エンバーミング」、それは遺体の修復と遺族のケアを総合的に提供するサービスである。
アメリカにはなんと「葬儀大学」なるものがある。
そこでは正に人間の精神と肉体の問題について非常に高度な知識を学ぶ機会があるという。
著者は葬儀屋の子供として生を受けたが、その環境に耐えられず上京してビジネスで成功する。
しかし最終的には自分の人生を賭ける生き方に目覚めて渡米。
日本人として初めてこの知識体系を学ぶ機会を得、帰国後にそれを展開している第一人者。
彼の功労により、日本でもようやく「グリーフケア」という概念が芽生えてきているようだ。
遺族を失った悲しみ、それを乗り越え人生を新たに出発するためのサポートを行うという、非常に奥の深いサービスである。
様々な課題はあるにせよ、こういうサービスをビジネス化し展開できる米国の力量には頭が下がる。
自分としては著書に記された彼の言葉に心を打たれた。
「子供向けのグリーフケア」という題目である。
「日本よりも進んでいると思われているアメリカでも、実は、子どもにきちんと「死」や「葬儀」について説明できない大人が多い」という。
しかし「子供が理解できないのではなく、それは、大人が、子供が理解できるように伝えられていないだけではないか」という回答を得るに至る。
著者の見解では、死生観については子供も大人も同じく共有できるという。
そして「自分自身を知らずに、相手と接していると、全てを自分の知っていることにあてはめようとする傾向、つまり「押しつけ」になる」と述べている。
我々はこのことを謙虚に見つめるべきではないだろうか?
現代社会で片隅に埋もれてしまっている「死生観」、これを見つめる感性は子供の方が強いかもしれない。
何のために生きているのか、そういう問いに対する感性は子供の意見に耳を傾けることでみえてくる部分もあると思う。
小さな子どもは親との関係が全てであり、それが人生の基本となるからである。
この根本的な関係性を基礎に置く人生こそ、我々が追求する幸福の基本にあるのではないだろうか?
ただこの社会は「グリーフケア」と呼ばれることからもわかるように、「死」が「悲しみ」という意味でしか捉える事の出来ない状態にある。
本当に「死」は「悲しみ」だけなのだろうか?
本来的にはこのレベルまで「死」の定義を行う必要があると思うのだが、我々人類は「死」に対する根本的な意義を見いだせず、歴史は流れてきたのである。
しかし徐々に変革の足音が近づき始めている時代に我々は生きているということもまた、紛れのない事実だと思う。