「生と死の意識革命」が国を救う

すべて、患者さんが教えてくれた終末期医療のこと

すべて、患者さんが教えてくれた終末期医療のこと

  • 作者: 大津 秀一
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2011/01/19
  • メディア: 単行本

この本は本当に深い感銘の書だった。
それは現代医学の立場で生死の価値の問題に触れているからだ。
数多の人の死と向き合い続ける医師の真摯な活動記録と事実告白に裏付けられた言葉は非常に重い。

終末期医療に関する数々の誤解に対して回答するという形で内容は進んでいくが、その根幹には「人の死とは何なのか、そして人の生とは何なのか」という根本問題が横たわっている。
現代日本の悲劇 - それは人々が誰しもが通過する現実としての「死」からあまりにも遠ざかってしまっているということ、そして人々はその問題に対処する術を知らないことだろう。
いわゆる唯物論の問題が根底にあり、そこに社会制度事情や浅薄なコミュニケーションといった日本人のマイナス特性が問題を助長していると行間から読み解ける。

以下にポイントを引用したい。

一時の苦しみか、将来に続く苦しみか。いずれにせよ楽な選択はないが、前者の、真実を知ったうえでそれを何とかやりくりし、来るべき日に向けて皆が一生懸命準備をするというほうが、間違いなく良い時間を過ごせるはずだ。真実を知らなければ、「いつか治る」「大丈夫」と考えたまま、時間は尽きてしまうだろうからだ。
心ある医療者はこう考えて、悪いニュースを伝えるのである。

「先生、僕は……最後に『ありがとう』って言いたかった。言えなかったんですよ。……そう、言えなかった。何でだろうね、先生。今なら言えるのに……何で……何で、頑張れだとか、そんなことしか言えなかったんだ!」
本当は、意識がしっかりしている時に、その言葉が言えたら、もっと幸せな最期だったろう。けれども、死期が迫ると急な経過を辿ることゆえに、しばしばこの機会が失われてしまうのだ。
思うより早く最後が来てしまうことは少なくない。「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを」(在原業平『古今和歌集』)なのだ。多くの人が、今日明日が最後と思わずに亡くなっていく。そのことを念頭において、患者さんもご家族も行動していただきたい。

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多くのがんの患者にとって抗がん剤の投与は、治ることが目的ではない。なぜなら、多くのがんにおいて、抗がん剤だけで根治は不可能だからだ。治らない病気の場合に抗がん剤治療を行う本当の目的は、できるだけ命を延ばし、(治ることはほぼないので)一方で治療に拘泥することなく、望むことをし、やるべきことをしてもらうためである。
ところが、医師は往々にしてそれを伝えるのに躊躇する。意思がひどいからでは無論ない。「抗がん剤はいつか効かなくなる可能性が非常に高い(実際はほとんど、である)」「だからその時まで時間を大事に使ってください」、私もそれを告げる立場に回ったことがあるが、大変告げにくいものなのだ。下手をすれば「なんでそんな事を言うの!?聞きたくなかった!」と、患者さんに半狂乱になられてしまうこともあるだろう。
だから、「あえて告げない」医師も少なくない。ちょっとだけ、さりげなく伝えて「告知した」ことにする医師も多い。結局、患者は「抗がん剤がいつか効かなくなる」ことを聞かされずに、効かなくなった段階でその事実を知ることになって愕然とするのだ。
根治することは医師がはっきり言わないだけで、実際にはほぼ不可能なことなのだ。ここに医師と患者の感覚のずれが生じ、それがだんだん大きくなっていく……。「治るため」に必死で副作用に耐え、頑張る患者も出てくる。
体の具合が悪いのに無理やり抗がん剤治療を継続することで、治りもせず寿命も伸びず症状も軽くならず、むしろ副作用で苦しみ、抗がん剤治療をするために生きている状態になってしまうのだ。化学療法が手段ではなく、目的となってしまうのである。

その事態を回避するため、化学療法医を始めとする抗がん剤治療に携わる医師は、最初にこの真実を告げなければならない。いや、最初に一度だけ言っても、あまりの腫瘍マーカーの改善ぶりにそれを忘れてしまう患者も少なくない。だから、この現実を何度も何度も、言葉と患者の心情に十分配慮しながら伝えるのが、医師全体の責務だ。
しかし医師も絶対数の少なさから来る多忙で、患者にそれを伝える十分な時間が取れないのも、現状を変えられない一つの原因となっている。腫瘍マーカーの話に終始してしまうのも「時間がないため」という理由が大きいのかもしれない。これからもこの状況は続くだろう。
ではどうしたら良いのか?厳しいようだが、患者にも責任はある。
「この化学療法は根治の可能性はどれくらいあるのですか?私の余命は、データだとどれくらい延長しますか?」、患者に、そう聞くことができるだけの、抗がん剤に対する正しい理解と、どんな答えも受け入れることができる勇気がなければ、この現状は変わるまい。

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「人生五十年」だったつい半世紀ほど前までは、成人するころには親がいなかった人も多かったことだろう。または、思春期や青年期に親の死に触れることで、しっかり生きなければならない、そう思い人は大人になっていったのだろう。
いつしか日本人は「死」から遠くなった。
私があれこれ思うようになったのも、同じ年代の誰よりも死に近い人間だからだろう。私より若い二十代の患者さんが死とまっすぐ向き合って亡くなっていく姿を見ると、死とは何か?生きるとは何か?そう考えないではいられない。考えていく中で、その人それぞれの死生観が生まれ、望まぬ延命治療を拒否する下地ができあがるのだと思う。
しかし、多くの人が死からあまりにも遠ざかってしまったため、唐突に死が目前に現れると皆が激しく動揺する。いや、もちろん死を前に動揺しない人などいないだろう。私自身も死が近くなれば確実に動揺すると思う。しかし、普段からその時を想定していた人間とそうでない人間との間には、大き
な違いが生じるものなのだ。だから私は、「死」について考え、家族とそれを話し、己の最後のあるべき姿を見据えてほしいと願っている。
そして死を思うからこそ、人は精一杯生きようとすると思うのだ。それは表裏一体なのだ。命は限られたものだからこそ、強く光り輝くのだと私は思う。限りある生を精一杯生き、人生においてしたいこと・するべきことをやりとげ、思い残すこと少なく、最後に「私は寿命だ」と自ら宣言し、全ての望まぬ治療を拒否して死んでいくのが良い、そう言えるだろう。

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患者が窓口で払わなくてはいけない自己負担分の割合は、年々増えている。自己負担の割合が増えているため、
「病院は儲けているなあ」
そういう誤解が多い。とんでもない話だ。
先に述べたように、診療報酬は上がらず、病院の収入も減っているのだ。患者の自己負担が増えても、病院は一銭の得にもならない。要するに国や保険から賄われるお金を減らすための措置が、自己負担の増額なのだ。
また、自己負担が増えれば、結果的に患者の受診を抑制することになる……行政はそう考えている。受信が減れば医療費は下がる、そうすれば保険制度は守られる。
「じゃあ病人は病院にかかるなってこと?」
これはある意味、そのとおりだ。ドライな考えだが、行政の一つの使命は、医療費をあらゆる手段を使って減らし、国民皆保険制度を守ることなのだ。だからはっきり言って、病院にかからず家でいつの間にか亡くなっているような患者が、最も「理想的な」患者と言えるのだろう。なぜならば、それだと医療費は一銭もかからないから……。
建前では「軽症の患者の受診を抑制し、不要な医療費を削減する」と言っているが、軽症かどうか患者自身に判断できない場合も多いだろう。医療費を気にして、本当は重症の患者が病院にかからなければ、患者の命に関わる。いや、そのせいで受診が遅くなれば、病気が重症化し余計医療費がかかるのではないか?というのも事実である。
医療費を減らしたい。行政のこの思惑を我々は理解しなくてはいけない。
しかし、我々の側にも問題はある。確かに日本人は病院にかかり過ぎなのかもしれない。
冬になると病院は風邪患者でいっぱいになる。そして、本来不要だと思われる薬を大量に処方されて帰っていく。最低限の薬のみ処方しようとしても、患者や家族から不要な点滴や余分な処方を要求されることが非常に多い。しかも説明をしても不要な理由をちっともわかってくれず、「当然、受けられるべき医療が受けられないのはなぜだ!」とばかり、騒ぎ立てる人も多いのだ。厚生労働省は、窓口で払う自己負担分を増やすことで、このような本来「不要な医療」を減らしたいのだろう。
結論として、患者も、もっともっと賢くなるべきだろう。

医療によって絶対には生命は守られないこと、それを医療者も患者も家族も、つまり国民皆が知り、そのうえでどう現実に対応していくのか、それを個々人が考え、周囲と共有してゆく必要がある。
必ず死は来る。これを不幸や敗北と考えるのなら、誰もが不幸や敗北で終わる。そうでない捉え方ができるようになれば、患者さんが、死が迫った終末期に何をするのが自らにとって最良なのか、その答えが出せるのではないだろうか。
医師の、医療者全体の、そして医療界全体の意識改革が必要とされており、そしてまた患者、家族、国民全員の死や終末期に対する意識の改革が必要とされているのだ。そのためにも、ここまで書いてきたような、死や終末期、および医療の正しい情報を知ることが、判断材料を得るために重要なのだ。

何より一人ひとりが死について考え、終末期について考え、そして日本の医療の問題点に思いをめぐらせることから始まるのだ。必ず来る死の時に、どうしても周囲は長く生きていてもらいたいと頑張り、望まない治療が施されてしまうことがある。それがあまりためにならないことを知って、事前に意思を表示し、いらないモノはいらないとはっきり言うことができれば、自らの終末期の生の質と量は確保されるのだ。おまけに医療費を削減し、国を守ることになる。
死に対しての意識を改革することが、全ての改革の始まりになると思う。一人ひとりの意識改革が重要なのである。そして、人はどうして生きるのか?そしてどうして死ぬのか?それを一人ひとりが考えることは、医療に限らず、きっとこの世界を変えていくことになるだろう。

著者が他の著書で指摘しているように、終末期医療の問題は宗教的問題と直結する。
どんなに信仰心のない人でも最期まで永遠の世界を否定できる人はこの世にほとんど存在しない。
つまりそれほど普遍的な価値であるにもかかわらず、戦後日本は信仰という内的世界を無視した外的制度のみを西洋から受容し、その後唯物論に価値観の崩壊という悲劇に晒されてきた。
現代社会の問題克服のためには、日本の伝統的死生観の見直しとともに、神への信仰を背景とした隣人愛を基盤とするコミュニティの定立が重要課題として認識されるべきだと痛感する。

改めて自分のライフワークにとっての重要な示唆が与えられた事実を確認しておきたい。